恐怖シリーズ172「浮かれ法師の趣味」

 物を集めるという趣味にはどうも共感できない。自分自身も物を集めていたことはあるので、集めたいという気持ちそのものはよくわかるのだが、そうした趣味というものがどうにもわからないのだ。
 これは自分の感性の何かが欠落しているために理解できないのだと思う。収集趣味というものはいつの世にも存在するように思われるからだ。

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 しかし、かつて集めた物を並べて満足げにしている自分に虫ずが走ったことは確かだ。それは切手であったり、書物であったり、キーホルダーであったり、文房具であったり、大体が細々した物であった。細々した物でなければ保管に困るからだ。
 最初の一つは何かの偶然であったかもしれない。次の一つは目的を持って手に入れたものかもしれない。それは倍になった満足感だろう。二つを比べて何か想像をかき立て、そこに何か価値を見出したのかもしれない。三つ目は、先の二つを客観的に見るための目をもたらすものであったかもしれない。ところが、四つ目以降はあまり増えた感触を味わえないのだ。こうなると、たくさん集めないと増えた感じがしない。これが収集趣味の正体だとすると、何だか人間にがっかりしてしまう。
 四つ目の後は数値目標だ。五つ集めるぞ。十集めるぞ。百集めるぞ。ある程度集まると分類作業が始まる。すると、分類によっては足りない状況が生じる。それを今度は埋めようとする。一体この労力は何のために費やされるのだろう。人はこの収集趣味を満足させて一体全体何を得ようとするのだろう。
 収集したものが世間で価値を認められているものならば、私財をなげうって収集の完成に向かって突き進み、散逸しないような手立ても講じるだろう。それには文化的芸術的な価値が生まれる。だが、ほとんどはそうしたことではないだろう。そうしたことではないのに僕たちは集めようとするのだ。もちろん自己満足が根底にはあったはずなだが、それは自己の何を満足させ得たのだろうか。何か他になすべきことをさておいてそこに目を向けてしまってはいないだろうか。つまり、何らかからの逃避行動、あるいは何かの代償行為なのかもしれないと疑うべきではないだろうか。
 さて、トルストイではないが、またもや「われら何をなすべきか」と思索しなければならない時代になってきたように感じる昨今だ。そうなってからでは本当は遅いのだけれど、いかれぽんち(「浮かれ法師」のことななあ?って最近思う)のようなことをもう言ってはいられないと、ほとんどの人が感じ始めていることだけはよく伝わってくる。
 恐ろしいことは、それが全員ではないということだ。老人も含めた大人や子供の浮かれ法師たちが、何かの名残で発言し、何かを真似て行動し、しかもそれらに意味がなくなってきたということに気づいていないことも恐ろしい。そして、自分自身も同族のおそれがあるということも、やはり恐ろしいのだ。
 こうしたことは僕の場合、育ってきた昭和の時代に原因があるのかもしれない。しかし、時代のせいにしたら時代のせいに決まっているのだから、何の解決にもならないうえに、何の進展も期待できない。つまり、それでは人間としてではなく、タンパク質やカルシウム等々の集合体、そして大方は水でたぷたぷした物体としての価値しか、この命を果たし得ないということになる。それは、やはり奇妙な生き物、人間として生まれてきた僕としては、かなり寂しいことであるように思う。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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