突然思い出したこと151「自分の目で見たものしか信じない?」

 「自分の目で見たものしか信じない。」という文句を突然思い出した。そのようなことを口癖のように言う人が周りにいないだろうか。でも、それほどに自分の目というものは「信じ」られるものなのだろうか。経験上、僕は自分の目など到底信じられない。
 自分の目で見たものでも、それが確かなものかどうか分かりはしないという姿勢をもたねば、「目」に曇りが生じるというものだ。自分の目で見たものも他人の情報と同様に怪しいのだから、取りあえずは、仮に「信じる」ことにして、本当に自分の目で見たものが本当に確かなものであるかどうかを、幾通りかのしかるべき方法で確認しなくてはならないはずだ。そうでなければ、大事なことを見逃すことがあるからだ。
 たとえ確かなものでない場合にも、確かでないことの理由や確かでなくなる条件などが確認できるので、他に警鐘を鳴らしたり、今後、同類のことに「目」を曇らせてしまわないように予防できる度合いを増やしたりすることができるので、それはそれで有益だと思うのだ。
 このようにものごとには慎重かつアクティブでなければならないと思うのだが、自分の目で見たとか自分一人で確かめたとかいう極めていい加減な方法だけで確認できたとしてしまうのは非常に危険なことであるように思う。
 この「自分の目で見たものしか信じない。」という当然といえば当然の言葉に潜む危険性は、「確認できない他人の情報だからこそ、しかるべき様々な方法で確認して結論を出すまでの間は、その情報を信じるという危うい姿勢を一時的にとらざるを得ない。」という極めて妥当な態度を認めないことにある。
 僕たちが心がけたいのは、自分だけが、しかも様々な方法で確かめた情報でもないのだから、まずは「信じる」というレベルで把握せざるを得ないということだ。従って、次の段階として、その他人からもたらされた情報が本当に確かなものかどうかを、しかるべき様々な方法で確認しなくてはならない。それも自分一人では心もとないので、他人と情報交換をしながら、話し合う中で見極めなければ、その情報の「信頼性」というものは確認できないというのが本当のところなのだと思う。何よりも、その結果得られた「信頼性」も実は怪しいものだという懐疑的な姿勢を崩してはならないはずだ。
 大変面倒なことではあるが、こうした手続きや努力を怠れば、「信じる」ということイコール「盲信する」ということになってしまう。この世界の物事やこの社会の意図的な情報操作や意図的でない情報の歪みに対しては、その面倒なことを面倒なことだと思わない習慣的な態度で応じなければ、ストレスになってしまうだろう。
 情報に限らず、知識のありようも、本来はかろうじてそうしたものによって支えられていくものなのだろうと思う。
 この面倒に対する僕たちの怠りが、一般化し常習化している場合、事は厄介だ。「信じる」という言葉の発音が担っている意味合いのうち、「盲信する」という意味合いだけに限定されてしまっている状況であるにもかかわらず、「信じる」という言葉の発音の響きに対して、そこから期待したい意味合いであるところの「信頼している」または「正しい」という意味合いをまとうようになることがあるからだ。
 この場合、情報を受け取る側の誤解や曲解を招く可能性を高めることになる。また、そもそも情報を発信する側自体の自己誤解があることも否めない。そうなると、何を信じてよいかわからないということになる。しかし、何も信じなくてよいではないか。「恐らくそうではないかと一般的に思われている」という認識で十分ではないか。その認識をそもそも「信じる」という言葉で言い表していたのではなかったか。まさかとは思うが、案外「信」と「真」が同じ発音なので、信じていることが真実だということになっていったのかもしれない。本当は、信じていることが真実であってほしいという願いがそこにはあったかもしれない。
 さて、「信じたい物事」「信じたい情報」「信じたい知識」はたくさんある。しかし、忙しい日常生活のなかで、それらがどこまで信憑性のあるものか、ゆえにどこまで信頼性のあるものかを確認する作業の時間を確保することは難しい。そのようなことにエネルギーを費やしていては、人生の諸事を解決していく間尺に合わない。人生には時間的制約があるから、この時間的不経済は命取りだ。これを解消する知恵が「信じる」ということだと考えてもよいかもしれない。
 この場合の「信じる」はどこかの誰かが何らかの方法で確かめたのだから、自分は何も確認する必要はないと見切ったところの悲しい「信じる」だ。当然、そこにはリスクがある。リスクがあるのに敢えて「信じる」からこそ、信じることは尊いのだとも言えるのだが、その尊ばれる所以は「リスクがあるのに敢えて」という部分にあるということを僕たちはつい忘れてしまいがちだ。
 こうした「物事を信じる」「情報を信じる」「知識を信じる」というときの「信じる」と、「人を信じる」というときの「信じる」を混同している人はいないと思うが、小中学生あたりだと言葉の使用経験年数や体験として経験する状況の少なさから考えてその意味合いの区別には怪しいものがありそうだ。「信用」や「信頼」という言葉の理解や区別から説く必要があるだろう。
 まずは、「信じる」という行為が美しく、人間として当然のことだという徳目にしておくことが大事だ。人間関係を築く力を形成し、その能力を伸ばしていく時期に、懐疑的であれとという頭が軸になってしまうことは危険だと思う。
 その時期に他人に裏切られるという体験を重ねた結果、感情的に「もう何も信じられない」と吐き捨てることで自分を救うということはよくあることだが、理性的に考えた結果「信じられるものは最初からない」というものの見方にたどり着く場合もある。
 どちらにしても、そうしたことから「自分の目で見たものしか信じない」という、まるで法則のような、あるいは信念であるかのようなもののいいをすることになるということはあるだろう。
 法則や信念は単純な言葉で表現されるのが常だ。そうすることで人の心に訴えかける力を表現に持たせられるからだ。単純にそうした方が印象的で頭に残りやすく、場面場面でその言葉を当てはめやすくなるからだ。
 当てはめやすいがゆえに、その言葉の信憑性のようなものが高まっていくためのポイントのカウント数が高まり、比較的短期間のうちに金科玉条化することが、新たなものの見方を形成していく時期にある青年期にはよくある。
 特にその時期は、力のある表現に影響を受けやすい。それが言語の幅広い習得時期のなかで、「盲信する」という意味合いと、「仮に信じて受けとめる」という意味合いと、「信用する」という意味合いと、「信頼する」という意味合いの、それぞれに重なる基礎的な意味合いだけに注目することによって生じる誤解をたくさんしやすいタイミングで受ける影響の弊害には注目しなければならないだろう。
 一般的にその「ある言葉」は流布されているということと、個人的にも「ある言葉」が当てはまる体験を積むなかで自分の金科玉条となっているということ。これが厄介だ。「ものの見方」として定着してしまいやすいのだ。
 しかし、ごく普通の「ものの見方」であったとしても、ある場面においては、それが誤解や誤用である場合もある。そうであるにもかかわらず、多くの人が同じようなとらえ方をして同じような感じをその表現から受け取ったということが「普通」であることの根拠となっているので、それは誤解や誤用として意識されることはなく、あくまでも正しいとらえかたをしたという道筋が強化されていくことになってしまうという虞もある。
 さて、逆説的だが、疑っているからこそ、実際に確かめない間は信じているというのが筋ではないかと思うのだ。だから、疑う期間が長ければ長いほど、信じていなければならない期間が長くなるので、非常にストレスを感じるということになるはずだ。このストレスを解消するためには一刻も早く「自分の目」(他人の目も借りた自分の目)で確かめなくてはならない。しかし、この「確かめなくてはならない」ということ自体がまたストレスにもなるだろう。
 疑うために信じていなくてはならないが、信じるために疑わなくてはならないということになる。そうしたストレスに対する配慮をすれば、「漫然と信じる」ということの価値にもやはり注目すべきなのだろう。

広告

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
カテゴリー: 突然思い出したこと パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中