「いじめ」はなくならない。なくすは方法は一つ。集団を作らないことだ。しかし、集団を作らねば、競争心が生まれなかったり、学び合ったりしないので、成長過程にあっては学校における集団教育が必要だ。だから、「いじめ」はなくならない。しかし、ひどいいじめ事件が起こるようになってきて、それが問題視されるようになってきたので、いじめられっ子は現在よりも次第に保護される方向になっていくだろう。だが、いじめっ子の未来はどうなっていくのか。暗澹たる気持ちになる。
「いじめ」が起こる根本的な原因は、人格が未完成な者たち同士で集団生活をしているところにある。そして、その集団が十分に管理されていないところにある。その集団生活に対して強い権力と良識をもった指導者が生活の場を支配していれば、「いじめ」は起きにくい。また、起こったとしても深刻化しにくい。そのうちに時が来て、学級は解体されて再編成される。つまり、基本的には振り出しに戻ることになる。それを二回待てば中学生の場合は高校進学という大きな再編成を迎える。これでまた大きな御破算が起こる。志さえあれば、人が再生する機会となるのだ。
こうした集団における有効な支配が否定されたり、不十分だったりすると、未完成な人格の持ち主たちの行動がエスカレートし異常化していくようになる。そして、最後には自分たちでも修正できなくなる。単純明解な理屈だ。
面白半分の残酷な行動である「いじめ」を本当になくそうとするならば、未完成な人格の持ち主、つまり子供が集団教育を受ける前に、適切な支配体験を積んでおくところから始めなくてはならないのではないかと思う。事前教育というわけだ。これが疎かにされると、うまくパブリックな集団生活に組み込まれにくくなる。無法者の誕生だ。こうして、彼ら小集団による私的で不適切な支配が発生するさせることになる。教室という空間が、二重に支配されている空間となるという厄介なことになる。
家庭においてはどうだろう。適切な支配を行う親は、良好な親子関係を築き上げながら、次の集団教育のためのステップアップを図るだろう。しかし、小集団でありながらも、残念ながら幼稚な支配しかできない親は、虐待の罪を犯すことになる。あるいは、全く支配しないか、しても中途半端な親、つまり無関心で無責任な親も増えているようだ。
この悪影響は相手が幼い子供であるだけに影響は大きく深く、絶望的だ。そうしたケースが増えてきているというのは、それは本当にどうしてだろう。何かを頑張った副産物、あるいは後遺症のようなものが長年積もり積もってのことだろうか。それとも何か伝承され続けていたものが断絶してしまった結果なのだろうか。不思議に思う。
これまでに家庭や友人関係の中で様々な形の支配を受けてきた子供がいる。あるいは、支配をしてきた子供がいる。これに対して、学校は集団教育で修正をかけながら、子供の発達を促すということになっているはずだ。家庭教育と学校教育の関係とは恐らくこういうものであろう。前者はほぼ無計画で支配をするが、後者は計画的に支配をしようとする。この違いが、双方の欠点を補うのだと思う。
集団教育、特に学校教育は、「いじめ」は子供の本質であるというぐらいに考えて営まれるものでなくてはならない。マスコミで取りあげられるほどのものは年に数回なのだろうが、普段は日常茶飯事で起きているはずだ。
そうした多くの小さな「いじめ」も、大抵は子供たち同士で解決し終えているか、親や学校の補助を得て解決していると思う。ゴキブリ一匹いたら、その三十倍はどこかにまだ潜んでいるといううわさも聞く。
ところで、子供は残酷でずるい生き物だ。それはやはり彼らが歴とした人間の子供だからだ。大人の本性、つまり人間の本性は残酷でずるい面が大きいように思う。
もちろん、残酷でずるい、というそれだけのことではない。しかし、その理由はといえば、彼もかつては歴とした子供だったからだという、その一点にある。一人一人の人間の成人以降の行状を確認すれば、なるほどその子供時代があってこその言動であったかとの理解が得られるだろう。
ただ、大人よりも子供は、自分の中に湧き起こる「いじめ」行為への欲望をコントロールしにくく、ずばりと人が傷つくようなことを言うこともある。
もちろん、「いじめ」は子供の本質的な行動ではないが、実行された場合に受ける被害者のダメージがあまりに大きいがゆえに、本質的なものを覆すという、そのぐらいのつもりがなければならないと思うのだ。
近い将来、食うか食われるかの世の中に出ていく子供たち。彼らは今、「いじめ」ごときでへこたれていてはいけないはずだ。しかし、昔の「いじめ」と今の「いじめ」は質が違うという声も聞く。
つまり、一瞬「いじめ」の領域に入るけれども、それを「いじめ」としてお互いに認識し、行動を抑制するのだ。つまり、「いじめ」は本当の危険領域に入る一歩手前の警告領域というわけだ。子細あってそこに至るのだが、「これ以上はだめ」という頭がはたらくのだ。それは、この状況が少しでも長く続けば、後で気まずいことになるという経験に基づく判断だ。その気まずさは、友達同士の批評や、大人から受ける罰によってもたらされるものだ。
批評や罰が抑制心を育てることに異論を挟む者はいないだろう。しかし、そうしたブレーキを獲得することを忘れ、「豊かなこころ」を育てればよいというスローガンにだけ着目した偏った教育観に陥ると、バランスの悪い心の持ち主が大量にできあがることになる。
もちろん、人間のこころにブレーキがあればいいというわけではない。エンジンもハンドルもナビもガソリンもバックミラーもフロントウィンドウもウィンカーも、そしてタイヤだって必要なのだ。これらに相当するこころの仕組みは個別の家庭教育の中で家庭の状況に応じて育つ。しかし、こころの仕組みのバランスは、その個別の家庭の中だけで成立しているので、一転して社会の中で生活しようとすると、一人一人がばらばらに評価されることとなる。家庭教育の中だけでは必然的にアンバランスに育つのだと思う。「家ではいい子なんですけどね」という決まり文句はそこからでてくるのだろう。
最初はもちろん、ばらばらでも構わないが、ばらばらのほうがよいところは、そのままにしたり伸ばしたりし、ばらばらではいけない部分で、しかも不足している弱い部分の機能向上をどう図り、欠落している部分を獲得させ、鍛えていかねばならならない。それが、子供の人格の完成を目指す教育者の仕事であろう。
問題は、家庭教育の場と学校教育の場とをまたぐようになる小学生となった子供が、何にどう対応するようになるかだ。生活上、学習上の問題を解決する能力が十分あるがゆえに、ずるく対応する子供も多かろう。逆に、そうした能力が不足するがゆえに、ずるく対応する子供も多かろう。当然、ずるさなしに正々堂々と生きていく子供も多かろう。生き方の傾向が違うのだ。
きっかけはどうあれ、性格がどうあれ、その生き方の傾向のずれのなかで、いじめが生じる可能性が高いように思う。生き方の傾向が違えば、仲間じゃないのだ。仲間じゃないものはやっつける。そうした当然の野性を人間界にあってはコントロールすべきだという文化を小学校の低学年からどう指導してくかが問題だ。そうしたプログラムを家庭や小学校はもっているのだろうか。もしないとすれば、いじめ事件よりも大問題だ。
自分にない能力をもっている者を仲間にする打算は、それはそれで結構だが、まだ未完成の感性だけで対応するしかないレベルの子供たちは、そうした打算すらしない。いじめて面白ければそれでいいのだ。それが犯罪にまでエスカレートしていくのが、今ある多くのいじめであるように思う。
語弊を恐れず言えば、かつて「いじめ」が正常であった頃、つまり今のような陰湿で悪辣で愚劣なものに変質する前、その時代の「いじめ」は、確かにコントロールされた「いじめ」であったように記憶している。社会と家庭の変化の中で、子供の質も変わったということだ。今も昔も子供は同じだというのんきな意見は、いろいろな場面で子供の言動を少し詳しく観察するだけで消え去ってしまうはずだ。もちろん、根本的には変わっていないのだが、根本的なところだけが変わっていないだけで、多くの部分が変わってしまったと感じることが実に多いのだ。
これは確実に家庭教育の失敗もしくは欠落と、学校教育の後手後手の指導の結果だ。それ以外にはどのような原因があるだろうか。生活様式の大変化が原因だという人もいる。もちろん、そうだ。だが、それは当然のことだ。問題は、教育というものが、家庭教育にしても、学校教育にしてもだが、そうした生活様式の大変化に応じて子供がおかしくなるのをくいとめる機能を持っているかどうかというところにある。教育行政の責任は大きい。
長い年月にわたって何代も家が栄えているというケースがある。恐らく多くの失敗経験に基づいた家訓や、それにまつわる事例が子々孫々に的確に伝達されている家なのだろう。そうしたものが欠落している家庭が増えれば増えるほど、そこから生み出された子供を教育する学校は、大きな改革をしない以上、指導が後手後手にまわってたいへんなことになり、子供たちに必要な生きるための文化を身につけさせにくくなるだろう。
学校が対応ばかりに終始しているのはそのような事情があるのかもしれない。先手を打って、学校が家庭教育に口を挟めばよいと思うが、それは勇み足という認識が世間にはあるだろう。では、さらに先手を打つのはどうだろう。家庭科の時間数をもっと増やし、家庭の機能や実践の事例を学生のうちにたたき込んでおくのだ。そうでなければ、異常な離婚率の上昇の本当の原因や、育児ならぬ成人するまでの子供との関わり方などに頭が回らない人々の大量生産を続けることになるだろう。
しかし、そうしたところに踏み込む立場にある人というのは誰なのだろうか。もちろん学校の先生や校長ではないことは確かだ。さまざまにある問題を解決するには、何かを変更することが必要だが、大きな事件がそのきっかけとなることも確かだ。
そこで、何かにつけて後手に回らざるを得ない学校が、そうした状況から脱出するためには、この「いじめ」問題を中心として次々に手を打つしかないだろう。それが行きすぎたものであったとしても、死者を出すよりはよいということで推し進めることだ。そうすれば、タブー視されている家庭教育にメスが入る余地が出てくるかもしれない。
かつて政治家が家庭教育にメスを入れようとして失敗した経緯があるが、タブーを破らなくては何も変わらないように思う。
タブーに挑戦するのは先生と呼ばれる人たちだ。学校の教師だけではだめだ。元々そうした立場にありそうに見えて、実は違うからだ。学者だけでもだめだ。政治家だけでもだめだ。それぞれが駄目なのではなく、エンジンだけでは車が走らないのと同じ理屈だ。タイヤだけでも車は走らない。そもそもボディーだけでは車ではない。
先生と呼ばれる人々の中に漫画家を入れてもよいかもしれない。教科書や一般書籍や専門書になじめない人間も、漫画なら気軽に情報を得ることができるからだ。その情報が、生活する中で自分の知恵となっていくこともあるからだ。その知恵の集積が家庭の文化、ひいては世の中の文化となっていく可能性もあるからだ。
逆に、「いじめ」がどんな「文化」から生み出されているかを知ることも必要だろう。
さて、人々に影響力のある、そうした「先生」たちが軌を一にして動かない限り、質の悪い子供は増え続けるに違いない。さすがに、今以上に質の悪い人々が増えてはいけないだろうと思うのだ。
いじめられた子が別の弱い子をいじめるという連鎖を見て面白がっているたちの悪い子もいるにちがいない。いじめている間はいじめられないので、いじめ続けるという臆病者のいじめっ子もいるだろう。そうしたたちの悪い人間が作り上げる世の中がとても恐ろしいのだ。もっとも、そうした人間ばかりになってしまえば、問題ないのかもしれないけれど。
今後どのようなことが起こる世の中を今を生きている人々が、無意識に、そして意識的に築き上げていくのだろうか。今最も怖いと思うのは、かつてのいじめられっ子がいじめていた子を直接殺したり、間接的に殺してしまうということや、そこまで至らずとも、いじめっ子が幸福になろうとする人生の節目ごとに、それを邪魔して地獄を見させるというような、陰湿な行動パターンが形作られていくのではないかということだ。
そうなると、いじめっ子もいじめられっ子も、どちらも生きているうちに地獄を見ることになるだろう。これだけは避けたいものだが、なすすべは今のところないように思う。
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