日々雑感320「マスコミの出番」

 いじめの問題は、大きな事件が起こる度に話題となる。大きな事件が起こらないと議論を進めないという国民の体質をまるでマスコミが作ってきてしまっているかのようだ。これはいけない。
 そして、例の如く、いじめの問題は解決しないのに、そろそろマスコミも話題として取りあげなくなってきているところだ。しかし、こうしたときにこそ、マスコミは覚醒しなくてはならない。社会の役に立つようにしなければ、その存在価値のほとんどは失われてしまうはずだ。
 いじめについては執拗にその責任をマスコミが追及すべきだ。教育委員会や教職員に対してはもちろんのこと、それらに対するのと同様の強さと執拗さで、文部科学省、そして関係する保護者と加害者本人をはじめとする全国の親と学生に、その責任の追及を繰り返さなければならない。学校だけに目を向けた報道を繰り返しているから「いじめ」はなくならない。マスコミ自身も含めたあらゆるものに「いじめ」の原因を見つけていく姿勢が今問われているのに、マスコミ関係者はそれに気付かないのだろうか。結局、気付いていても動けはしないのだろうけれど。
 対象が膨大だから不可能なことのように思われる。しかし、良識あるマスコミ関係者ならば、こうした一見無謀なことであっても、その機能を通常どおり発揮しさえすれば、やろうと思えばできることであると容易に想像できるではないか。
 これをしないと判断した特定の人物や、これをしようと思いつかねばらぬ立場にある特定の人物に、いじめ問題が解決に向かわないことの最大の責任があることは言うまでもない。経費の問題もあるが、それは国家がもたねばならない。なぜなら現時点では他に有効で現実的な手立てなど一つもないからだ。
 もう、このいじめ問題を他の問題にすり替えてはならない。この問題が解決しないのは、誰かが他の問題にすり替えてしまってきたからだと考えてもよさそうな時期だと思わないか。
 問題を問題を分析するという正当性のある対応を隠れ蓑にし、責任の分散と、分散することによる真の責任のありかを隠蔽するのは、もういい加減に止めよう。このことに全国民が早く気付かねばならない。問題を他の問題にすり替えたり、責任の分散をしてしまう張本人、その特定の個人が反省し、心を入れ替え、正面から問題に取り組んでいかない限り、大きな事件はもちろんのこと、大きな事件にはならないものの、実は悲惨さのかわらない名も無きいじめの被害者は、統計上からも、実質的にも減らないのではないかと思う。
 「そんなことを誰にさせるのか。それがわからねば、何もできないではないか。」という人もいる。しかし、そんな身も蓋もないことをいっていては、他の大事な問題同様に全国民が本当のことをうやむやにしてしまう傾向に拍車をかけることになる。想像力をはたらかせよう。国の最高責任者に決まっているではないか。その「いじめ」に対する認識が甘いため、多くの子供たちが地獄を味わっている。文部科学大臣に至っては、いじめについてはその兆候を早く周りの人々が気付こうということしか訴えかけようとしない。その程度なのだ。
 政治家に何かを解決することを期待するのはどうか。こういう意見も出てくるのはよくわかるが、それでも政治家が本気の姿勢を示すことが、問題解決の第一歩となるのは確かだ。もちろん、適当な有識者会議や委員会を作って、その場限りの浅い対策を出し、そのために混乱と徒労のうちに対策が先細りとなってしまうことを、そしてそれを適当にごまかそうとするのを、私たちは監視し続ける必要がある。
 では、私たち国民一人一人はどうすればよいだろう。当面、どうすべきかといえば、まず、「いじめも犯罪だ」というような、とぼけた発言が出ないように、「いじめ」という名称を限定して定義しなおして、現在「いじめ」と呼ばれている行為と切り離す作業が進むように関係諸機関にはたらきかけることだ。そして、現在「いじめ」と称されているほとんどの行為を「○○罪」にあたるものだとして、日常的に「○○罪」という語句を使う習慣を全国に一般常識となるほどに広めることだろう。そうした習慣が広まれば、発生件数を減らす即効性には欠けるかもしれないが、多少なりとも罪の意識が高まっていくことは間違いないと思う。
 「罪」という文字が使われることによって「罰」が意識されやすいようになることを期待するのだ。これはとても簡単な方法だ。だが、本当のところは悪いことに対する罪の意識が幼い頃から育てられているかどうかということが重要な問題となる。親の意識の高さが要求される。しかし、これを改善するには現実的に厳しい。肝心の親の教育力を監視し、評価し、高めるシステムがないからだ。子供を育てることについて適当で無責任な親を矯正するシステムも、子供の命に関わるものでないかぎり、実際にははたらかないのが現実だ。
 では、どうすればよいのか。いじめを否定し、いじめを根絶する文化をひろめるしかないだろう。その文化はことばによって長い年月かけて築き上げられていくが、そのことばを誰が常々口にするかによっては即効性も期待できる。そのような文化を意図的に形成していかない限り、「いじめ根絶」という直接的な表現のスローガンばかりが虚しく響きわたるだけとなるだろう。スローガンを一つ覚えで唱えるだけではなく、様々な場面における実質的なことばの戦略が必要だということや、そのプログラムをまさか研究していないわけはないはずだ。それを実行するように強く要求することだ。
 次にできることは何か。
 「いじめ」行為の中には、実に多くの犯罪要素があるので、「○○罪」のような一つの名称に集約してしまうことで、その罪のイメージをぼやけたものにしてしまわないように配慮することだ。少なくとも、「いじめは立派な犯罪」という表現はしないことだ。「立派」という立派な言葉を使うような、つまり犯罪には似合わないような語句を使って表現をしてはならない。「立派ということばが使われているのなら、自分もやってみよう」と考える子供だっているに違いないと想定しなくてはいけない。
 そんな子供いるわけないという人がいるかもしれないが、比較的高いレベルの中にセレクトされた人々の中で安穏と暮らしている、余程の世間知らずであろう。そうしたのんきな大人がいる限り、浮かばれない子供の数は減っていかないと気付くべきだが、ほぼそれは不可能だ。人間誰しも自分の目が全てだからだ。実際に自分の目で見る機会を得ても、その脳が「解釈」を試みて、最後には自分のものの見方が正しいということに結論づけられていくことが多いように思う。
 「いじめは立派な犯罪」ではなく、「いじめは悪質な犯罪」だろう。なにしろ加害者は守られ、被害者だけが悲惨な思いをすることになるのだから。「いじめ」という平仮名表記にも問題がある。「虐め」と漢字を使えば、問題の深刻さが感じられるのに、敢えてひらがな表記とし、やわらかい雰囲気にしているのはどういう計算がはたらいているのだろうか。習わない字だからという単純な理由であったならば、どうにも「いじめ防止」に対する工夫というものがないではないか。では、どうすればよいのだろうか。「虐待」と言い換えればそれでよいのだろうか。
 いじめ行為の中には、様々な犯罪の要素があるのだから、一つ一つの行為に対する犯罪名とそれに対する罰則を明確に示していくということと、そのうえで「いじめ」の様相を呈していたと判断されたら、それ相当の罪名を考案し、個々の罪名の上に新たに加える作業を行うことが、当面必要なことだろう。また、処罰を厳しくするということも必要だろう。
 しかし、法というものはすぐに変わらない。だからこそマスコミが「○○罪、○○罪、○○罪ですが、これはいじめですから、例えば、人格人権否定罪というようなものがあれば、その大罪を犯しているケースですね。厳罰化だけに頼るわけにはいきませんので、いろいろな世論を巻き起こし、子供の命を子供から守っていこうではありませんか。ご意見ください。」という言い方を口をそろえて放送するようにすればよい。数多くいる子供の中には大変なことだと気付く子供もいるだろう。この作業をコマーシャルをうつように地道に続け、そのように気付く人間が世代を重ねながら少しずつ増えていけばよいのだ。
 厳罰化といえば、「厳罰化によってこの問題は解決するのでしょうか、本質的なことは何も解決しないのではないでしょうか」というような、小さな子でも言えそうな、つまり敢えてコメントとして価値のない決まり文句のようなものを、あたかも最終コメントのように言い捨てて、話題を変えてしまうニュースキャスターが、いまだにいて驚かされる。世の中にはいろいろな受け取り方をする人々がいるということを知らないわけでもあるまいに、あたかも厳罰化が悪いことでもあるかのような印象を視聴者に与えてしまう可能性がある発言をするのはどうしてだろうか。そこにはどのような意図があるのだろう。何の意図もなく言っているセリフならば、言わないのがよいはずだ。いやしくも公共の電波を使っているのだから。
 人の命に関わる問題には厳罰化を含む様々な対策がなされなくてはならないのは当たり前のことだ。だから、それを前提とした表現を考えなくてはならないはずだ。放送の責任というのは、放送しなくてはならないという意味での放送責任と、責任ある放送の少なくとも二通りあるということを思い出してほしい。
 厳罰化自体は良くも悪くもなく、必要に応じて厳罰化というものがなされべきだという、至極当然の論理に基づく発言をしないと、かなりそれは無責任な発言になってしまう。例えば、「厳罰化は非人間的なもので、人間を信じていない人の発想だ。高圧的に取り締まる傾向を許すのは民主的ではない。何にも増して、罰によって人の行為を正そうとするのはいかにも安直なやり方ではないか。」と受け取られかねないような言い方をいつまでもしているのならば、厳罰化による効果で命が救われたはずの「いじめ」被害者がどうにも浮かばれないのだ。
 安直なやり方であっても、打てる手は一刻も早く打っていかねばならないという現状にあるいう認識が欠けているのだろう。正式な手続きを経て変えるべきものは変えるべく、すぐにでも取り組んでいこうという気持ちに全国民がなってもらうためのコメントを提示することが大事だ。なりふり構わずに子供の命は守らねばならないからだ。交通事故については、かけがえのない命が失われたことをきっかけに厳罰化が進み、一定の成果を得た。いじめも同じように、いや交通事故よりも悲惨な形で命が失われていくのだから、厳罰化を進めようという世論が高まっていくだろうと思う。もし高まらないとするなら、それは自分の子どもが加害者になるかもしれないという気持ちがブレーキとなっていると勘ぐられても仕方ない。
 つまり、問題はそういう所にあるかもしれないと考えて対応しなければならないところに、いじめ問題を解決していく場合の難しさがあるように思う。
 そこで、マスコミの力に注目したい。マスコミの特徴は何か。マスコミは口は出すが手は出さないということだ。それでよいのだが、だからこそ、どのように口を出すかということについては、大きな責任を負っているということの自覚と、それを再認識するための定期的な研修が重要だ。
 その研修の中で、社会問題に対する積極的な解決姿勢を述べていき、そうした雰囲気を社会の中に作る表現を研究するための講座を設けてほしい。
 では、ニュースキャスターを例に挙げるとすれば、いったいどのように世の中にものを言えばよいのだろうか。
 例えば、「厳罰化だけでこの問題は解決するのでしょうか。個人的な意見ではありますが、本質的な問題を解決するには、○○○○するために、○○○○を、○○○○すべきではないでしょうか。」というような言い方に変えていくことはできないのだろうか。マスコミ人の心意気というものは相当に高いものがあると思っているが、個人的な意見を述べるのは、今の組織の中にあっては個人の荷が重いのかもしれない。
 これまでによく耳にしてきた「厳罰化で……」という表現は、厳罰化批判を明確に打ち出している。しかし、それだけに終わり、結局は逃げていることも明確だ。多くの視聴者がこのような表現に対してフラストレーションを感じる。担当者もそのことを知ってはいるだろう。しかし、そのように表現せざるを得ない事情というものもあるに違いない。
 もちろん、視聴者の期待する発言をしなくてはならないという法はない。権力にも権威にも視聴者にも阿ることのない、峻厳たる報道精神というものに僕は敬意を表するのだが、実際にはマスコミ人の良識の範囲で可能な限りの訴えをしていくしかないというスタンスも理解できる。
 一方、「厳罰化だけで……」という表現はどうであろう。多くの視聴者の頭の中に渦巻いている厳罰化を諭す姿勢がうかがわれるのみならず、ではお前はどう考えているのだという視聴者の欲求に応えるものにもなっている。これに対して視聴者は、俺ならこう考えるけどねと感想を持ちやすくなる。つまり、思考を深めていける。前者のように、問いかける形を取りながら実は、問題提起にもなっていない形式的な言い放ちとは異なり、後者は、双方向の対話を求める形になっている。実際には双方向のコミュニケーションにはならないが、現時点ではこれが限界だろうと思う。
 もっとも、そこまで私見を述べてはいけないという、ニュースキャスターとしての守るべき心構えもあるのだろうが、どこまで述べてよいのかは、最終的には個々の放送局の文化による問題なのだろう。しかし、各放送局で報道の在り方が少しずつ違うように、個人的な意見として断りを入れてから述べる文化をもった放送局があってよいと思うのだ。
 特にコメンテーターから得られなかった視点や論評等の不足があれば、その足りない部分をニュースキャスターが補うことが必要だろう。もちろん放送局に許可された私見に限るが、もっと積極的に述べていってよいのではないかと思う。いろいろな意見を述べることの自由がなくなったら、ジャーナリズムの命は終わりだ。だから、私見がどこまで許されるのかを知るためにも、その私見の内容と程度の可能性を探る必要はあるだろう。それを知ることなしに、責任あることばを述べるのは難しい作業だからだ。
 もちろん、ニュースキャスターはあくまでもニュースキャスターなのだから、オピニオンリーダーになってはならない。それは幾人かのコメンテーターに任せるべきだ。
 だとすれば、厳罰化を唱えるコメンテーターと、厳罰化以外の手法も唱えるコメンテーターと、厳罰化に反対するコメンテーターを用意するか、一人二役、一人三役できるような人物を用意するかしなければならないはずだ。
 世の中にはいろいろな親がいて、いろいろな子供に対して、基本的な生きる姿勢というものを、無意識に、時には意識的に、ほぼ無計画に教育している。人それぞれ、家庭それぞれでもちろんよい。しかし、そうした家庭教育の在り方では、例え親が自分の子どもの教育に一生懸命(往々にして教育ではなく、進学問題の解決というレベルに終始してしまうことが多いが)であっても、共通して「してはいけない」ことが、共通に「してはいけない」ことになっていない場合がどうしてもでてくる。人類は、これを罪と名付けて罰を与えるのが流儀であった。
 当然罪も罰もこの世からなくなっていくのが理想だが、理想というものは努力しなければ手に入らないものだ。その努力を我々はしているだろうか。現状では厳罰化はその努力の一つの在り方であることは間違いない。厳罰化によって一人でも多くの被害者が出ないように行動が少しでも抑制されればよいのだから。そして、「普通」の子供にとっては、どんなに厳罰化されようが、全く不自由を感じないのだ。罰とはそのようなものだろう。とにかく現状を無視した理想論を掲げていては、それこそ「何の解決にもならない」ことになてしまう。
 少しでも相手をいたぶって困らせ、その事に喜びを感じ、最後にはその相手を死に至らしめる子供がいたら、どんな手を使ってでもそれを阻止すべきだ。そうしたことに大人も子供も関係ない。年齢も関係ない。少年法の意義を否定するわけではないが、その弊害は徹底的になくさねばならない。子供に自殺に追い込まれようが、大人に自殺に追い込まれようが、自殺に追い込まれたことに変わりはないからだ。逆に、子供であるのにもかかわらず、大人並みのずるさと残酷さをもって、実行されたことがあったとするならば、大人よりも罪は重かろう。
 もし、それが子供特有のずるさと残酷さだというのならば、子供というものをもう一度捉え直して、少年法や、家庭教育や学校教育を、根本的に変えていかねばならない。そうした子供による被害者を出さないということが大前提なのだから、機械的に教育施設に入所する年数を決めるのではなく、完全に矯正され、再犯率がゼロと判定されるまで、社会に解き放ってはならない。仮に、再犯があれば、再犯率ゼロと判定した者がそれなりの責任を取るということにする必要があるだろう。
 いつも思うのだが、一般市民の安全保障はどうあるべきかは、再犯率を評価の一つとして、検討されなければならないと思う。警察の在り方もそれに沿って見直しが必要となるはずだ。そうしないと次のような極論が出てきてしまう。
 再び犯罪に手を染めたら、二度目はないということで、施設に隔離し、人生を台無しにされる被害者を出さないというシステムを作るべきだ。隔離されるべき人々が増えれば、そこで社会を形成するようにする。つまり、その中にも警察組織や裁判所に似たものをつくり、その社会ならではの法律によって、その社会の構成員によって裁くのだ。そして、同様にその隔離施設の中にはやはり隔離施設があり、同様の社会を形成していくようにする。
 こうした極論が、ある意味合理的であるように見えるのが不思議だ。それはどうしてだろう。
 さて、規範意識や道徳的な態度が親によって年齢に応じた一般的なレベルにまで仕込まれていない子供、つまり、より幼く、より未完成な子供、わかりやすく言えばまだ動物的な段階にいる発展途上の子供が、一般的な人間社会や教育の場である学校社会の中で生きていく過程で、加害者とならないためにはどうすればよいのだろう。
 「罪」を意識させていき、人格が完成するまでの間は、子供ならではの「罰」を厳しく与えるというシステムを示して実行することを通し、その思考や行動に抑制をかけていくようにしなければならないのではないかと思うのだ。
 もちろん、罪の意識をもてない子供もいる。また、罪の意識をもてないように見える子供もいる。この場合は保護者が罰を受けるようにすればよいのだが、ことはそう簡単ではない。教育放棄、教育不十分、監督不行届。いろいろあるだろうが、その責を終えないと判断した親がどういう行動に出るかということを想像しなくてはならないからだ。
 とにもかくにも、世の中にはいろいろなレベルの人間がいるという動かざる現実を直視しなくては、問題解決の第一歩すら踏めないように思う。いろいろな人間がいるのに一緒に暮らしていかねばならないところに悲劇が生まれる。これは壊れかけたトラックや大法打ちながら疾走する戦車と一緒に三輪車や徒歩の人々がガードレールのない一本の道路を使っているのとに似ている。だからといって、お互いに隔離すればいいのではないかという論理が横行しては本末転倒だ。
 つまるところ、どれだけの多くの人々が泣き寝入りを強いられているかをマスコミ関係者は調査をし、表面化していない悪行を白日の下にさらす責任がある。真実を広く知らせることがマスコミ関係者の使命ならばだ。そうした基礎的な作業を疎かにしていては、伝えることばの重みが軽くて薄いものになってしまう。それは、マスコミの「力」が弱まるということではないか。もっとも、別の「力」が弱らねばよいという頭があるのかもしれないが、それではそれも本末転倒だ。
 ところで、こうした子供が、本能的、あるいは意図的に、「いじめ」という罪を犯すのか。もととは言えば育てた親に責任があるのだが、最近は「親の顔が見てみたい」という決まり文句が、死語化している。「親は親、子は子」という決まり文句も、今は一体どういう意味合いで使われているかが心配だ。「三つ子の魂百までも」という決まり文句も死語化していないか。こうしたものが死語化したのは、多くの親が親として子供を育てる能力が低くなり、親同士もお互い様化した結果のように感じる。親全体の変化に近いから自覚は薄く、改善は望めそうにないかもしれない。
 どういう場合に、その能力が低いと判定できるのだろうか。例によって10種類考えて、列挙していこう。

①目指す学校に進学するための家庭学習と、人格形成のための家庭教育を取り違えている場合。

②子育ての有効なノウハウを自分の親から受け継いでいない場合。

③売れている子育て本の我が子に合わない特徴的な手法を金科玉条の如く鵜呑みにしている場合。

④売れていない子育て本の明らかに現代日本の現状に合わない手法を鵜呑みにしている場合。

⑤夫婦の協同作業や役割分担が不明確で一貫していないのは普通だが、それが極端な場合。

⑥「子供のいうことをよく聞く」という基本的なことを、よくあることだが「子供のいうことをほとんど聞き入れる」と勘違いしている場合。

⑦全て自分の子ども鍛えるためだと感じることができず、自分の子どもを守ろうとする親の本能が間違った方向に働いているのに気付かず、自己満足している場合。

⑧いつの間にか子供に主導権を奪われている場合。

⑨「しつけ」の意味と目的が本当にはわかっていない場合。

⑩子育てを「しつけ」だけだと勘違いしている場合。

 いくつかにまとめられそうだから、10種類とは言えないが、このような親に育てられた子供が不幸であることだけは確かだろう。しかも、育てられ方の問題だから、自分を見つめる目もその中で育っている以上、その不幸さを自分で意識できない部分があるかもしれない。「だって、みなさんそうじゃないですか?」という発言があれば、確定的だ。
 何とも不憫な話だ。残念ながら、いじめっ子、つまり犯罪者だけになる可能性だけでなく、駄目人間になってしまう可能性も背負わされているように思う。
 駄目人間とは大人になれなかった子供だ。どのような人も駄目なところがあるのだから、私たちは全員駄目人間なのだが、それはそれで人間的な人間と呼んで、お互いに親しんでいる。ここでいう「駄目人間」というのは自滅したり、他人を破滅させたりする人間のことをいう。
 こうした駄目人間が多くでないように、親は全力で努力しなくてはならず、教育関係者は全力でフォローし、リードしなくてはならない。社会の最小単位である家庭、その親子関係と子育てを改善しない限り、社会を良くするための方策は、教育であれ、政治であれ、法律であれ、全て後手に回っていると言わざるを得ない。
 しかし、マスコミはそこを追及しない。なぜなら視聴者あってのマスコミだからだ。だから、民放には最初からあまり期待できない。しかし、全国的な問題には、全国的なものが大なり小なり必ず関与している、そして関与していけるのだから、マスコミも良い方向で関与していけるように、勇気をもって努力していくことが必要だと思う。
 マスコミは、マスコミの得意とする、視聴者の意識操作の技術を駆使し、ある一定以下の人間性にしか成長しなかった、あるいはそうなりつつある子供が犯そうとしている罪を、罪として意識させ、その罪を犯させないようにしていくことを使命の一つとしてほしい。もちろん、そうした意識は大きいと思うが、放送内容がもたらした効果の自己評価や視聴者による評価は、誰によってどのように整理されて、公表されているのだろうか。そうしたものが公表されていなければ、放送責任というものが軽く扱われることによる弊害なくすことができないはずだ。
 少なくとも模倣犯を生み出さない配慮と、どのような種類の子供も、どのような立場の子供も、同じように視聴してしまうということが何を意味し、何を生み出すかという想像力をはたらかせていくということ、根本的な解決をするためには根本的な子育ての問題について言及し、事例研究的に継続的に示していくということなどは、何はともあれ、すぐにできることだろう。
 マスコミ関係者の出番となってから久しいと思うが、どうだろう。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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