僕たちは痛みをどのようにコントロールしているのだろう。
脳が自動的に痛みを麻痺させることもあると聞くが、そこに人の意思ははたらいていない。
どのようなときに痛みを感じないでいられるかといったら、それは何か他のことに集中しているときだ。集中するのは自分の意思でできることなので、訓練を積めば、集中力が破綻しない限り、これによって痛みをコントロールできるだろう。
しかし、痛みは危険を知らせるシグナルだ。何かに集中することで忘れられてしまう程度の痛みであれば、一時的に忘れられても差し障りのない程度の危険だといえるのかもしれない。すると、訓練の結果、強化された集中力のせいで、その危険が重大なものになるまで放置されてしまうという虞も否定できない。
もちろん、痛みの程度と危険の程度が必ずしも一致するとは限らないが、大方それは一致しているだろう。一致していない場合というのは、一つには、殊更に痛みを痛みとして意識して、痛みに敏感になっている場合が考えられる。また、何らかの原因、例えば薬物や慣れによって、痛みに鈍感になっている場合も考えられる。
これによって、痛みの持つ働きが不自然にねじ曲げられ、必要以上の手当を受けることになったり、痛みが所定の機能を正しく果たさないまま、軽すぎる手当を受けて終わる可能性も出てくる。
他には、どのようなときに痛みを感じないでいられたり、痛みが和らいだりするだろうか。
経験的には、精神的に癒されている場合は、痛みを必要以上に感じないでいられるように思う。安心感がそうさせるのだろう。しかし、癒しを自分の意思で獲得するのは簡単ではない。何らかの手続きや自分以外の人の存在を必要とするからだ。
例えば、何らかの花の香りを嗅いだり、手でさするなどの身体接触を受けた場合も痛みが和らぐことはあるだろう。また、痛みの原因にもよるが、呼吸の仕方でも痛みが和らぐことがある。五感を癒す過程で痛みを含む感覚も癒されていくということならば、痛みが和らぐ音楽や絵画なども創作できるかもしれない。
また、同じく経験的には、今感じている痛みよりも、さらにひどい痛みを感じる場所ができたときには、最初の痛みを忘れてしまうということはある。これを自分の意思で行うのは、不可能ではないが避けたいことだ。たとえ最初の痛みを忘れても、自分の意思でより強い二番目の痛みを生じさせたのだから、身体のダメージはさらに増えてしまうからだ。これでは本末転倒だ。
痛みをコントロールする方法は他にはないだろうか。
「痛いの痛いの飛んでけ」というお呪いがある。幼い子供にはこれがよく効く。それはどうしてだろう。「痛いのがどこかに飛んでいくわけはない」という理屈が大人にはあるが、幼い子供にはそれがないからだろう。ある意味「知らぬが仏」ということだ。
そこで、自分なりのお呪いを考えてみたらどうだろうと思うのだ。理屈を自分で拵えるのだから、効果はあるかもしれない。それは言葉によるものでもよいが、言葉によらないイメージだけのお呪いでもよいだろう。当然、両方合わせてもよい。
イメージによるものは、たとえば痛みのない状態を直線としてイメージし、今感じている痛みをオシロスコープで見るような特定の波としてイメージする。コントロールするときは、その痛みの波形を打ち消す逆の波形をイメージすればよい。これによって波は直線となり、痛みが解消するという方法だ。
これを考えて実行したときには、意外と効果があったので、痛みをイメージに変換して、イメージ上で解消するという方法も加えることにしたい。
もっとも、イメージする段階でその作業に集中するため、他のことに集中することによる方法と変わらないかもしれない。しかし、痛みに向き合いながら積極的にコントロールしようとしている点が異なる。
いろいろと痛みのコントロール方法はありそうだが、要は自分の得意な方法や、痛みの種類による方法を選択するなどすればよということだろう。
最後に、一般的な痛みのコントロール方法として、医薬品によるコントロールと、一定以上の激しい痛みの場合は、外科的に取り除く方法がある。あるいは自分で温めたり冷やしたり、曲げたり伸ばしたりするもする。指圧によって痛みをコントロールする方法もある。歯痛に対する指圧の劇的な効果も実際にあるが、もちろん虫歯自体が治るわけではない。
外科的に取り除く方法はコントロールとはいわないかもしれないが、一応これらも医者にかかるという自分の意思によるものには違いない。
ところで、般若心経の中に「眼耳鼻舌身意」という語句があるが、これらに関するはたらきかけを丁寧に行えば、痛みも「無」になるのだろうか。織田信長の焼き打ちにあった寺の僧が燃えさかる炎の中で「心頭滅却すれば火もまた涼し」と平然と焼死したと伝えられているが、修行した者はそこまで本当にたどり着くかもしれない。人間という動物は本当に恐るべき動物だとつくづく思う。
だが、同じ能力によって、逆に痛みを創出してしまうということも考えられる。しかも肉体的な痛みだけでなく、精神的な痛みに至ってもだ。これはこれで厄介なことに違いない。人間という動物は今さらながら恐ろしく、また実に奇妙な生き物だと思う。だから、人間として生きているだけで面白くて仕方がない。
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