日々雑感323「見つめるということ」

 僕たちは同じものをずっと見つめていられるだろうか。1時間でもよい。ずっとじっと見つめていられるだろうか。そもそもそのように見つめてみようとしたことがあるだろうか。
 見つめ続けられない理由はいくつもある。しかし、その理由が「1時間も見つめているような暇はないから」「1時間も見つめる理由がないから」「1時間もしないうちに見飽きてしまうから」「1時間も見つめている価値がないから」などという表面的なものであったならば、例によって問題の本質に迫るチャンスを失うことになってしまう。これを思考停止の罠と解釈するか、思考停止による安全装置と解釈するかは御自由だ。
 もし、見つめ続けられない理由が、「1時間もしないうちに別の角度から見たり、手に取ってみたりしてしまうから」「1時間もしないうちに見つめている間に気付いたことを書き留めたくなるから」「1時間もしないうちに何でできているのか、どのように作ったのか、何に使えるかを、聞いたり調べたりしたくなるから、」「1時間もしないうちに新しい使い道を試してみたくなるから」であったとすれば先程とは大違いだ。
 前者はつまらない人生を「つまらない、つまらない」とぶつぶつ言いながら、そのつまらなさを解消することを楽しみとして生きていく人物だ。
 後者は毎日が楽しく、明日が待ち遠しいと言いながら、その楽しさを自分のためだけでなく、多くの人に分かち与えることを楽しみとして生きていく人間だ。
 試しに目の前にあるスタンドライトを見つめ続けてみよう。
 輪郭を目でなぞる。うっすらと積もった埃を見る。手入れをしなければと思う。いつ買ったのかと思い出そうとする。いくらだったのかと思い出そうとする。なぜ買ったのかと思い出そうとする。これを買う前は何を使っていたか思い出そうとする。色が落ち着いていてよいなと感じる。デザインもなかなかよいと感心する。そのように思ったから買ったのだと気付く。消費電力はどのぐらいであったかと心配になる。LEDの照明にした方がよいのかもしれないなと思う。あまり使わないから買い替えるのは逆に勿体ないではないかと考え直す。そもそも、あまり使わない物をどうして買ったのかと疑問に思う。今はあまり使わなくても、買ったときにはよく使っていたと思い出す。よく使うからよりよいものを買ったのだとも思い出す。今はあまり使わないから処分してもよいかもしれないが、いつまたよく使うようになるかわからないので、そのままにしておけばよいと思い返す。物というものは生活スタイルが変われば、要らなくなるけれど、勿体ないから捨てない。だから、生活スタイルがよく変わる人の家は物が多くなって雑然としてくるのだろうと考える。生活スタイルは一生のうちでどの程度変化するのだろうかと考えてみたくなる。スタンドライトを見つめながらも、かなりスタンドライトから思いがずれてきたと気付く。もう少しスタンドライトを見つめてみようという気になる。どこの国の製品だろうか確かめたくなる。韓国や中国の製品に違いないと見込む。いやベトナムかもしれないと推理してみる。このデザインはつくられた国の文化を反映しているのか、個人的なオリジナルデザインなのか、外国の設計者が考案し、製造したのは別の国だろうかと想像する。今度買うときはどのようなスタンドライトを買おうかと考え始める。スイッチを入れて明るさを確認したくなる。可動部分を動かしてみたくなる。そういえば随分と触っていないということに気付く。触っていればもっとこのスタンドライトのことを理解していただろうにと思う。たかが照明器具だが、この照明器具によって夜まで活動することに人間が変わっていったことを考えると、ものすごく重要な発明だということに気づく。夜を昼にかえるのだから神の如き所業ではないかと思い始める。人間という動物の皮を被った神がこの星に大勢すんでいると言ってもよいのかもしれないと思い始める。昔の人が神を人の姿として描いたのは根拠のないことではなかったかもしれないと思い始める。人に灯りをもたらしたもの、火をもたらしたものはプロメテウスだったと思い出す。映画プロメテウスはまだ放映しているかどうかが気になる。放映していれば映画鑑賞にでかけてもよいかなと思う。いつからそのような精神的な余裕ができたのか不思議に思う。忙中閑ありだと苦虫をつぶす。このようにスタンドライトを見つめていること自体が精神的余裕をもたらしたのかと疑ってみる。もしそうならば、一日に一回は何か物を見つめて物と対話をすることが大事なのかと考え始める。しかし、まだ独り言の段階であって、スタンドライトと対話していないことに気付く。本当にスタンドライトと対話し始めたら、少し怖い精神状態に陥りそうで危ないと感じる。対話するというのは比喩で、取りあえずは観察するということでよいのではないかと思う。一つのものだけでなくいろいろな物を見つめる、つまり観察するということは物と自分との距離を測る大事な作業だと気付く。距離が遠ければ、捨てるか人にあげるか、別のものに作りかえたり別の用途に使って距離を縮めればよいと思う。周りの物一つ一つは自分の思考の延長に存在するものだと気付く。ここへ別の物が入り込むと違和感を感じるのだろうと想像する。独り暮らしの場合は思考の体系が単一だからよいが、結婚すればその体系が乱れ、乱れた後にどこかで収まるということに築く。その過程を通して人は懐の深さを培い、それが人生経験を積んだ者としての魅力になってくれればよいなと願望する。思考が飛躍し始めたなと気付く。もう一度よくスタンドライトを見つめてみようと気を取り直す。何分経ったかを知りたくなる。まだ、1時間経っていないことを確認しようとして完全にスタンドライトから目が離れる。
 実は、僕はここで見つめることに飽きてしまったのだと思う。観察しながら記録するということをしなければ、もっと別のことに気付いたり考えたかもしれない。この記録を分析しなければ、僕はただの暇人となってしまう。観察記録を分析して自分の傾向を確認したり、観察することの価値を見出したりすればよいのだ。
 他人はともかくとして、少なくとも僕自身は観察しながら記録することに対して、つまらないと感じることはなかった。もちろん、実際には最後はつまらなくなって、飽いてしまったために、別のことをしようとしたと思う。それを客観的に考えるとなぜか面白いのだ。
 何にでも面白さがあるのだ。しかし、感性が鈍ったり、感性が操作されていると、面白さに気づけなくなる。そこでゲームの登場だ。自分で考案した最も自分に合ったゲームではなく、会社が開発したゲームだ。会社はお客さんのニーズに合わせるというが、実はニーズを作っているように思う。
 ゲームでなければ面白さを感じられない人間を育てることが戦略の一つになっているかもしれない。これに抵抗しなければ、面白さの面白さを知らずに面白さを貪る幽鬼のようにさまよう人となってしまう。
 おっと、危ない、危ない。今日から何かをじっと見つめる訓練をして、己の感性の幅を広げ、多くのものに秘められた面白さを発掘しよう。発掘には時間がかかる。運も必要だ。でも、発掘し続けなくては何も発掘できない。
 何が起きても楽しくてたまらない人生にすればよい。そのようにできる能力が人間には備わっているように思われるが、どうだろう。もし無ければ無くてもよいではないか。なければそのような能力をひねり出せばよいだけだ。「そんなことはとても難しくてできない。現実はもっと重い。」という声が聞こえてきそうだが、そんなことは当然のことだ。
 そうしたことを当然のこととして、もう一度見つめ直せば、ひねり出さずとも、いろいろな面白ことが湧き上がってくる。そのように人というものはできているのだと思う。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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