変な疑問129「てんぱる」

 「あいつ、てんぱってるぞ。」の「てんぱる」は、麻雀の聴牌(テンパイ)が語源だという人が多い。確かに麻雀ではテンパイの状態になったことを「てんぱる」とか「てんぱった」とかいう。しかし、近ごろ日常会話で用いられる「てんぱる」は「焦る」という意味で使われているようだ。ここが不思議なところだ。もしかすると、近ごろ一部で流行してる「てんぱった」は、麻雀での「てんぱった」を語源としていないのではないか。
 麻雀で「てんぱる」のは、通常いくつかある「あがり牌」のうちの一牌が出てくるのを待つだけの状態となったことなので、焦るとは真逆の余裕綽々の状態になったことだ。「てんぱる」ために努力を積み重ねてきて、ついに後一牌で勝てるのだから、これまでのスリリングな駆け引きは終了し、ほっと一息つけるのだ。余裕綽々であることのデモンストレーションとして、てんぱった時点で煙草に火をつけ、一ふかしする人もよく見かける。これをプチ習慣にしておけば、てんぱっていない「のーてん」のときに「てんぱった」ふりをして、後の三人に脅しをかけて焦らせることも可能だ。
 一人がてんぱると、彼ら残り三人は、余程の高い手で自分自身がてんぱっていたり、てんぱりそうになっていた場合を除き、これまで努力して作り上げてきた手を崩さざるを得ない状況に戦々恐々とすることになる。そして、「てんぱった」人に対して自分が「あたり牌」を提供してしまわないように、全力を傾けざるを得なくなる。つまり、焦るのはてんぱった人ではなく、てんぱることを許してしまった周囲の人々の方なのだ。
 てんぱった本人はといえば、頭をフル回転させ、少しでもよい手になるようにしたり、振り込まないように捨てる牌を決めたりする必要が、もうほとんどない状態で安心し、ただただ、誰かが自分に「あたり牌」を振り込むのを、ただ安穏と待てばよい余裕の状態こそが、てんぱっている状態なのだ。
 ただし、勝利することにたいして、わくわくしたり、どきどきするので、精神的にハイになることはある。しかし、それは焦っているのではない。もう手は決まり、自分自身はどうこうする必要もないからだ。後の三人が、自分が振り込んでしまうのではないかとどきどきしている、そのどきどきとは、文字は同じでも内容が全く異なるどきどきだ。「てんぱった」者が「わくわく、どきどき」しているのに対し、「てんぱる」ことを許してしまった者たちは「ひやひや、どきどき」しているということだ。
 この「どきどき」が共通していることから、真逆の意味が取り違えられ、焦るあまりにうまく物事を進められない人に対して、「あいつ、てんぱっているなあ。」とつぶやいてしまう現象が起こったのだろうとも思う。
 このような取り違えがその通りであるとするならば、その背景にはこの国における麻雀のゲームとしての衰退があると考えられる。多くの者が雀卓を囲んで熱戦を繰り広げていた時代ならば、「あいつ、てんぱっているな。」という言葉の意味は、「あいつ、密かに準備を調え終わったな。ああ、怖い、怖い。」という意味合いにしかならないはずだからだ。
 ただ、そういう時期でも、あまりにも待ち牌が多くて、あたり牌を見逃しそうなときや何でもない牌をあたり牌と見間違えて「ロン」と宣言しそうになって、焦ることはある。麻雀人口が多く、裾野が広いときは、そうした初心者が多くいただろうから、なおのこと「焦る」様子が人々の心に焼き付いている可能性がある。
 そうなると、麻雀用語としての「てんぱる」は、近ごろ流行の「てんぱる」の語源とはいえないのではないか、という疑いは一応晴れることになりそうだ。流行る言葉というのは、意味として受け入れられやすく、簡単に覚えやすく、日常会話に親しみやすいものでなくてはならない。
 「今日は会議が連チャンである」などというのは、麻雀用語として流通し、そして日常化したものだろう。麻雀熱が再び高まらない限り、麻雀用語を下敷きにした、そのような現象は起こりようがない。
 そうしたこともあり、近ごろ流行の「あいつ、てんぱっているぞ。」には、大きな違和感を覚えながらも、時代を感じさせられ、何か郷愁めいたものが胸にわきおこってくる。
 デジタル化されない時代の人と人との味のある付き合い。それは麻雀というゲームを楽しむということをとおして、人と人のつながりを築いていた時代だ。面倒くさくはあるが本物のふれあいがそこにはあったような気がする。面倒なことを排除した結果、偽物で満足せざるを得なくなった時代はどこまで歩みを進めているのだろう。
 ところで、カップ麺は面倒ではないが、料理を偽物にしてしまった。似せてあるから一応満足なのだが、それは本当の満足ではない。まあ、ますます本物の価値が高まるという意味ではよい時代なのかもしれない。
 他人の作ったフォントで文字を表現するのが普通になった時代。いくつかのフォントから自分の自由意思で選択するのだが、その自由意思も限りある選択肢の中ではたらかせるものである以上、限りなく偽物に近い。手書きの文字がどうであるかを云々するテレビ番組が番組として成立する時代。いつかは旧字体ブームとか篆書ブームとか、過去のものに光を当てるようになるだろう。
 しかし、それは過去のものに光を当てて今を見直し、これからどうするかという流れの中で価値を分析して再評価するというような性質のものではないだろう。おそらく、単に今とは異なるもの、珍しいものという視点で断片的に引きずり出され、情報として消費されるだけのものになるだろう。
 そこで大事なのは情報消費者としての目だ。ただ消費するだけの情報として受け流したほうがよいのか、それとも今現在を生きるという意味において消化し、知恵として確立していくほうがよいのか。知恵として確立するためには、新たな情報を集めたり、新たにディスカッションしたり、新たな行動を起こすところまでいかねばならない。そのような面倒を乗り越えて初めて満ち足りた精神状態に近づいていける。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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