恐怖シリーズ180「見越し入道」

 「見越し入道」は見上げるほどに大きくなっていくという。そんな伸縮自在の妖怪から逃れられるのだろうか。
 「見越し入道」は「見上げ入道」とも呼ばれている。だが、「見越す」のと「見上げる」のとでは、立場が逆の言い方だ。もうこれは名前からおかしいから、出くわしたら、「見越し入道か、見上げ入道か」と尋問しなくてはならない。 
 「見越し入道」なら、これは人間を見越すわけだから、見越された人間は、小さな存在になってしまう。「見越し」といえば「粋な黒塀、見越しの松に、あだな姿の洗い髪、死んだはずだよ、お富さん……」という歌があった。僕の小さな家にもかつてはなぜか黒塀と見越しの松があったが、その「見越しの松」なら、塀の内側にある松の幹や枝振りが往来の人々を見下ろしていることになる。つまり、見越すの主語は入道だ。この妖怪がぐんぐんと巨大化することによって人間を見越すのだ。人間は見下ろされることによって、予想外の見上げ方のために腰を抜かして倒れ、腰を打ったり頭を打ったりしてダメージを受けることになる。
 妖怪側から見れば、そのような状況に人間を陥れるには、加速度的に巨大化する必要がある。人間が見上げるのを契機に巨大化するのだが、巨大化の割合はについては、人間が見上げるのに応じていてはいけない。それでは、人間の姿勢は崩れにくい。
 特に、見越し入道が、垂直方向に伸び上がるのならば、見上げる人間としては次第に見上げる角度は小さくなっていき、首の仰角の変化は緩やかになるから、その次に起こる姿勢の変化に対する調整が楽になり、体勢が崩れにくくなる。これでは「見越し入道」にとっては不利だ。
 仰角45度程度あたりから、首の可動範囲は限度を超え始める。そこでその先、「見越し入道」としては、人間が意図的または反射的に急に体を反らせて姿勢を崩したり、後ずさりしたりせざるを得なくなる状態にどうしても持ち込まねばならない。姿勢の崩れや後ずさりが同時に起こったときには、転倒したり、転落したりする可能性が随分高くなるからだ。ただでさえ、未舗装の細い凸凹道、街路灯やガードレールもない時代では、そのようなことで怪我をしたり命を落としたりすることが、今よりもずっと多かったはずだ。この点については「見越し入道」が有利だ。
 人間の体勢を崩すのを実現するには、人間が予想する以上の速度で巨大化しなければならない。そこで問題になるのは、「見越し入道」が何を判断の基準として巨大化するのかということだ。恐らく人間が自分を見上げるその視線だろう。しかし、視線が合ってしまうと、人間としては入道の視線を追うことで首の仰角や姿勢の変更を行うことが容易になる。「見越し入道」としては、人間の視線を観察すると同時に、視線が合わない程度の巨大化速度をもたねばならない。人間の想定内の変化をしていてはならないのだ。これはかなりのストレスになるはずだ。なぜなら、巨大化して人間から目の位置が離れれば離れるほど、人間の小さな目を観察することが困難になるからだ。しかも、距離は加速度的に離れていくのだ。
 「見越し入道」は、これに対応するために、眼球を巨大化させるか、目の数を増やすかしかなくなるだろう。身体の巨大化とともに眼球も大きくなればよいかもしれないが、身長だけが伸びていくのならば、眼球を大きくしようにも、その眼球を納める頭の大きさには限界がある。その場合、頭を巨大化すればよいことになるが、そうなると首から下は加速度的に細くなってしまうだろう。すると、足に大きな弱点が生じる。大きくなった「見越し入道」にまたがれてしまうと人間は死んでしまうというが、ブリッジでしのげば、またがれたことにはならず、いくら「見越し入道」がまたいでも、それは帳消しだ。ただし、踏みつぶしに来るタイプだとブリッジをしてその場にいるのは危険だ。仕方ないので、ブリッジの四つん這いで高速移動するのがよいだろう。
 次に、人間の体勢を崩す方法としては、垂直方向に巨大化するのではなく、人間に覆い被さるように前のめり、つまり斜め上に巨大化するか、円弧を描くように巨大化する方法が考えられる。この方法で巨大化することにより、垂直方向に巨大化することのこれまで挙げたいくつかの問題点を解決することができる。しかし、新たな問題点も生じる。それは「見越し入道」自体の姿勢の崩れだ。重心が前に傾いて倒れやすくなるのだ。これを解消するには大きく前に踏み出しながら巨大化するしかない。それは同時に人間をまたぐ動作になるから、人間の命を奪う攻撃ともなる。したがって、この方法が、「見越し入道」の巨大化の仕方だと思われる。
 もしかすると、巨大化の前半は、片足を後ろに引きながら前のめりになっていくバランスをとっていき、巨大化の後半に人間の体勢の崩れを観察しつつ、転倒したとみるやいなや、後ろに引いた片足を大きく前に出して人間をまたぐのかもしれない。これが自然な動きだろう。だとすれば、「見越し入道」に遭遇しですむ場所や遭遇しても安心な場所というのは、彼が片足を引けない場所、そして大きく足を踏み出せない場所、高さに制限がある場所、転倒しにくい平坦な場所、転倒しても落下しない場所ということになる。腰の曲がった老人は最初から見上げることができず、若い者はその反射神経の良さによって転倒しにくい。そうなると、遭遇しても気づかなかったり、何とか対応できる年齢層もあるということだ。
 ところで、古くから「見越し入道、見越した」と唱えて見下せば、たちまち「見越し入道」は小さくなって難を逃れられるという。そうなると、「見越し入道」は人間を見上げる「見上げ入道」になるということか。「見上げ入道」とは、そういうことではなく、「見上げるほどに大きくなる入道」ということだろう。そうだとすれば、それは人間主体の表現だ。
 つまり、人間が見上げなければ「見上げ入道」は単なる怪しい存在のままで終わってしまう。伸縮自在ではあるが、自分の意思に限らず、人間の意思が関与する余地があるということだ。「見上げ入道」としては、それは不本意であろう。こうした事態を解消するため、「見上げ入道」はどのように対応するのだろう。
 たとえば、最初に人間の視界に入ったとき、既にある程度巨大化している状態にしておくという方法がある。人間は正体を知ろうとして顔を見る習性があるからだ。人間特有の好奇心も手伝い、顔を見ようとして見上げたくなるという程度の巨大化だ。見上げるという人間の主体的な行為を促すような、こうした準備を「見上げ入道」が主体的に行うという理屈だ。
 あまりおどろおどろしい風体であれば、人間もその顔を見る勇気も出ないので、顔を見上げることもないだろう。だが、一度巨大化を開始すればどこまで巨大化するのかと、怖いもの見たさで見上げる人間は多い。そうなってこそ、「見上げ入道」の真骨頂、本領発揮だ。
 だが、これは人間が、「見越し入道」あるいは「見上げ入道」にどの距離まで近づいてくるのかが問題だ。近づいてきた人間の目の高さはどれだけなのか。歩くときの通常の視野の上限はどのあたりか。姿勢を崩さずに首だけでどこまで見上げられるのか。これらを計算して準備しておかないと、あらかじめどれだけ巨大化しておくかの見当がつかない。人間との出会いには、非常に微妙な判断を迫られるということだ。これも大きなストレスになるだろう。
 また、対策法が広まっている人間の中には肝っ玉が太いだけでなく、心底意地の悪い者がいて、見上げたり見下げたりをわざと繰り返し、「見越し入道」を翻弄する可能性もある。そうなると、「見越し入道」は人選から始めなくてはならなくなる。これもストレスだ。
 昔は不審者の有無にかかわらず、夕暮れや夜であるというその理由だけで十分に危険だったはずだ。提灯を持って歩いていたとしても、何となく足下だけが明るくなるだけだから、障害物や不審者、その他の危険なものは不意に目の前に現れることになるのだ。たとえ、月の夜であっても、雲がかかれば急に暗くなり、周囲の状況が急に分からなくなる。油断して提灯などの用意がなければ、最悪の状況に陥る。これが山間の地となれば、暗闇もいっそう暗く、転落の危険度も極端に増す。そんな時代に多く出現した妖怪だろう。何か正体不明のものが不意に狭くなっている視界に映り込む。薄闇や暗闇では正体を見極めるのに少しだけ時間がかかる。そのわずかな瞬間に「見越し入道」は事を成し遂げねばならない。真の暗闇ならば巨大化していても人間は気づかない。夕暮れの薄暗い中、提灯の薄ぼんやりした明かりの中で、かろうじて気づいてもらったとしても、肝心の巨大化で、視界から外れ、暗闇に入り込む可能性もある。そうなると、目を光らせながらの巨大化も考えられるが、それは人間と視線が合うことを前提としており、人間の予想外の勢いで巨大化しなくてはならないという矛盾の中で、巨大化速度を絶妙に操らねばならなくなる。次のまたぐ動作のタイミングの問題も考え合わせると、何とも不便な妖怪だと思う。
 電力事情が許す限り、土木工事の予算が尽きない限り、人間の徒歩による夜の外出が増えない限り、当分の間、「見越し入道」の恐怖は考えなくてもよさそうだ。もちろん、「見越し入道」など出現しなくても、この国では自動車事故で年間数千人も命を落としている。これは「見越し入道」に限らず、人の命を奪うタイプの妖怪が近代化し、合理化を図ったのかもしれない。人間という厄介な生き物は同士討ちに限るというわけだ。これは妖怪たちの自己否定であり、人間の妖怪化だ。
 また、妖怪ではない「見越し入道」に警戒した方がよいということになる。生命としての命を奪うのではなく、存在としての命を奪われるということもあるからだ。何かが巨大化して見えたとき、それはライバルが実際の身長よりも大きく見えるということも、あるいは結局は人間に過ぎない集団が、組織として巨大に見えたりすることも含めて、「ああ、見越し入道だな。」と思えばよい。相手に応じた唱え言を予め考えておき、ここぞという場面で唱えるだけでよい。なぜなら、それは意識の問題だからだ。対策がないから恐怖を感じる。対策を講じておけば、平常心を保つことが可能だ。対策が功を奏さない場合ももちろんあるが、それならそれでまた新たな対策を立てて実行するだけだ。何ら問題はない。これで解決だ。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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