恐怖シリーズ182「演出」      

 写真や絵画にしても、映画、舞台にしても、何が不自然だといって、これほど不自然なものはない。それは演出だ。こうした言い方をすると、かなり逆説的に聞こえるかもしれない。しかし、それは、写真、映画、舞台などが宿命的に背負っている不自然な空間の制約のせいだから仕方ない。写真、絵画、映画、舞台。これらに共通するのは対面することによってのみ成立する鑑賞空間の創造を担っているということだ。対面することによってのみ成立するという、制約の多い空間の中で織りなされるがゆえのなにがしかの不具合を、ごく自然なものに修正して見せるために、やむを得ずとらねばならない手段の一つが演出だ。つまり、「一方向からの鑑賞に堪える風景や状況」の創造だ。合法的にねじ曲げた世界ともいえる。
 一方、観客というものは、およそ一方向をみんなが向いて同時に鑑賞することになっている。これは、あまりにも当然のことだから、誰も話題にすることはない。また、観客はわざわざ足を運び、お金を払ってまで鑑賞しようとする「特定の意欲と意図をもっている特殊な人々」だ。
 これら「一方向からの鑑賞に堪える風景や状況」の創造や「特定の意欲と意図を持っている特殊な人々」の存在は、鑑賞空間を成立させる基本的な要件だ。観客は、己の存在を傍観者とし、目前の非現実空間である作品を観察したり、鑑賞したりすることもあれば、逆に己を作品が織りなすストーリーの中に再現し、妄想し、飛躍させたりして、作品や作品の中の己を味わうこともある。
 作品に所属する現実空間の構成を対面形式に変換する、創造過程における演出。対面する緊張感のバランスをとったり、逆に鑑賞効果を高めるために利用したりする、展示過程や表現過程における演出。制作者や出演者、演出担当者が意図的に、あるいは本能的に行っているこれらの演出がある以上、観客も、鑑賞時の己の状況、作者、作品のジャンルやスタイル等々に応じた鑑賞姿勢を持たねば、作品や作品に関わる人々に効果的に向かい合えないだろう。
 つまり、対面する緊張を味わって興奮したいという欲求、対面する緊張を高めることによって、その緊張が解消するときの快感も高めたいという欲求、表現過程をたどることによって作品や作家を理解したいという欲求、作品や作家を理解することを通して、ある特定の世界に目を開きたい、触れたいという欲求、そうした様々な欲求を満たすためには、観客も自身の鑑賞立場を設定し、それを保持する努力が必要だということだ。
 たとえば、いわゆるコンサートは楽曲を中心とする舞台だが、その音楽コンサートに足を運ぶ多くの観客は、一つ一つの楽曲から自分に必要なストーリーを紡ぎ出している。また、音や映像の変化に無条件に身を任せることで己の存在を何かによらしめ、原初的な己の感覚を取り戻そうとしている。あるいは、同じコンサートに集まった見知らぬ者同士の連帯に酔いしれるとともに、己の存在の何たるかを自覚を確かなものにしている。それもこれも、意識するとしないとにかかわらず、鑑賞立場を設定して参加することによって目的的に実現することだ。
 コンサートでは、視覚的な「一方向からの鑑賞」という不自然さ、つまり、「多方向からそれぞれの目的で見る」という日常生活の場とは異なる空間に自分のみを置く。その中で舞台や舞台の中の人々と向かい合うという非日常的な緊張関係を強いられる状況、そして見知らぬ者が同じ目的で集うことは、それら自体が興奮をもたらすものだ。
 それらは、やがて立体的な空間自体を満たすさまざまな音響、楽曲や効果音、声援等々によって、向かい合う緊張感が聴覚的に破られて解消されていく。また出演者の観客席への侵入、観客や出演者による投げテープや紙吹雪、物の投げ込みによって、向かい合うという緊張感が物質的に破られて解消されていく。自他共に共同で鑑賞空間内に緊張感を作り出し、音楽コンサート独自の形式に応じた方式で緊張感を作り出している状況に入り込み、その後、己独自の方式によって緊張を緩和しながら、己の中で内面的な修復作業を行っていく。
 音楽コンサートは、決められた音の変化、決められた歌詞を主軸として構成されている。ほとんどの観客もそれを知った状態で参加している。次にどんなメロディーになるとか、次にどんな歌詞が来るかを知っているのだ。奏でる側としては、観客のリピート率を上げるためにも、毎回新たな発見をしてもらえるように、新曲を織り交ぜたり、最初から歌詞の内容自体を一般的で曖昧なものにしておいたり、そのバランスをとるために表現だけは特殊にしおいたり、歌詞が要所要所で少しだけ聞こえにくくなるように楽器の音を大きくしたり、早口で歌ったりする部分を作っておいたりと、様々な工夫を凝らすだろう。楽曲でそうした工夫がしにくい場合は、トークでうまくつなぐ。楽曲と楽曲とを箸休めのようにトークでつなぐ形をとりつつ、奏でる者と対面する緊張感によって観客との関係をつなぐのだ。
 トークの中で観客が思いもよらない言葉かけをされるだけで、「はっ」とさせられたり、「えっ」と思わされたりする。そうしたことで付け加えられた緊張感も、決められた音の変化や決められた歌詞によって緩和していく。その過程で己独自の方式で歌詞とメロディーに助けられながら内面的な修復作業を行っていくのだ。
 同じ動作や同じ言葉で声援するのは、景気がよく派手で一体感もわいてお祭り騒ぎになるからよいようなものの、実は、己独自の方式を捨てられない特殊な崩れ方や特殊なバランスを持っている観客は、同じ動作や同じ言葉によって修復作業がしにくいため、どうしても家で個人鑑賞をすることになる。皆が皆同じだと勘違いしてはならない。少数派を平気で無視したり、脳天気に気づかなかったりすることは別に珍しいことではないが、それを意識しているかいないかで、態度や言葉尻に大きな差が出てしまうので恐ろしい。奏でる方は、相対している観客に対する緊張感以外にも、コンサートに来れなかった観客、来なかった観客、来ようとしない観客に対する緊張感を持って事を執り行わねば、少し大きな学芸会で終わってしまうだろう。
 音楽コンサートを「一方向からの鑑賞」の「一方向」に焦点を当て、もう少し見てみよう。
 「一方向からの鑑賞」という特性を活用する形で、舞台のあちこちに移動したり、観客になだれ込んだりするのは、観客の満足度を高めるから効果的だ。しかし、そうした意識なしに、ただ動きだけをまねていると、単なる元気のよい舞台だったということで終わるだろう。
 ただ、奏でる者がいくら移動して一方向からの鑑賞を効果的に崩そうと思っても、音はスピーカーから流れ出ているから、単純な舞台装置では「一方向」を崩していることにはならない。だから、大音量にして、方向性をなくすか、スピーカーの数や位置を工夫するしかない。
 家で鑑賞する場合も、ある程度離れたところの機器から音を出す場合と、ヘッドホンで聴く場合は事情が異なる。ヘッドホンの場合は頭の中で鳴るように聞こえるから、対面している感じにならないからだ。もし、それを対面していると感じるのならば、一方向からの鑑賞体験をベースにして聴いているかだろう。
 演劇の舞台はどうだろう。
 演劇の場合は、音楽コンサートと異なり、日常生活の空間が舞台の上に構築される。しかし、演出によって観客が部屋の中にいるような舞台もあれば、観客が路上にいるような舞台もある。また、出演者が観客席に入ったり、ホールの出入り口を利用したりする場合もある。観客席自体が舞台になることもある。これは演出者による、舞台の日常空間化だろう。逆に言えば、舞台は通常それだけ非日常的なものだということだ。
 日常生活の空間では真逆だ。一人一人がばらばらの目的を持ち、ばらばらの場所で、ばらばらの方向を向いて、ばらばらのことをしている。それでいてかろうじて現実世界を築き上げている。だが、そうした微妙な達成感だけでは、人は生きていきにくい。行動は彼方先を目指していながら、ばらばらになっているお互いが作り出す摩擦のために、たとえ壁を越えたと思っても結局は足下に少しずつしか軌跡を残せないからだ。ストーリーはだから必要になる。心的エネルギーの補充には欠かせないものとして重要な価値を持たされているのだ。
 そのストーリーを組み立てている台詞はどうだろう。もちろん舞台での台詞は歌詞のように決まっている。しかし、アドリブは入る。これは演出で入るものもあれば、役者自身のその場での意図的なアドリブや台詞間違いの延長で辻褄合わせに行われるアドリブもある。それはそれで観客の方もサービスを受けたぐらいの感覚で受け取る。いや、役者との心的距離がきゅうに近づいて温かみや親しみすら感じることになる。演劇鑑賞をしていたはずなのに、同じ立ち位置にいるような錯覚を覚えるのだ。
 これは「一方向からの鑑賞」という方式を演出のうえで崩したり、偶然に崩れたりする現象だ。崩すことによって、それが隠し味的なはたらきをし、演技が引き立つという効果もあるに違いない。これらに加えて、作者の意図に沿った観客への明確な語りかけをタイミングの計算通り役者が行えば、鑑賞している座から引き下ろされ、あるいは引き上げられて作者と一体化することになる。これによって自己流のオートマチックな内的修復作業から内的改革へと歩みが一歩進む可能が生まれる。
 演劇の舞台には、他にも時間と空間、そして音響の演出がある。時の流れにしたがって、少女時代から青年時代へと順に場面が変わる演出もあれば、後戻りする演出もある。空間の演出は、舞台上を統合しようが分割しようが、観客から見えない場所での演技は無意味なので、どうしても観客席からの一方向からの鑑賞となる。
 これらの大きな制約を前向きに解消するために、役者の動線や動き、大道具や小道具の置き方、舞台装置の工夫を凝らさねばならない。ここに日常生活に見せかけつつ、日常生活からかけ離れた空間が構築される。ストーリーの展開や場面場面が、あれもこれもという足し算の演出では複雑になりぎる場合には、逆に通常の空間の演出を捨て、抽象的な大道具を配置し、それを移動させるにとどめ、衣装と台詞、音響で観客に想像させるという、引き算の演出を行うという諦めに至る場合もある。
 また、時の流れにしたがって順に表現しているのが自然なことだとは言えない。過去を振り返り、過去をねじ曲げ、過去を忘れ、過去に助けられ、未来に向かう今を、未来に対する不安や期待を抱えながら、何かを目指し、何かをもくろみ、何かを夢見て生きていく人間、その人間そのものを表現しようと思ったら、順々になど表現する方が不自然になるだろう。その自然な感じと不自然な感じとの折り合いをつけつつ脚本は書かれていく。そのこと自体が演出だ。
 さて、一方向からの鑑賞に堪える演出が必要な時代はいつ終わるのだろうか。舞台については、一方向からの鑑賞の弱点をうまく取り込んで活用しているようにも見えるので、もう何も語らなくてもよいのかもしれない。もし、語るのならば、これからの舞台のあり方についてだろう。どのような演出が可能なのかという問題についてだ。
 たとえば、舞台の奥を透明にする。舞台の上では役者が動き、舞台の向こうでは本当の日常生活の場面が見えるという工夫だ。舞台のこちら側では観客がその日常と非日常を同時に鑑賞するという仕掛けだ。
 ただし、単に透明にするとホールの外の人々が舞台を逆側から鑑賞するという二重の観客席を出現させてしまうい、日常的な空間が消失してしまうという問題が起こる。有名な俳優を不意に無料で拝めることになる人もいるわけだから緊張感はホールの中よりも低いものの、興奮度は逆に高くなる可能性がある。
 これを解消するには舞台裏をマジックミラー化することだ。ホールの外の日常を舞台とともに鑑賞することは可能だが、ホールの外から中は見えないというわけだ。問題点は一つ。どの演目であっても、いつも同じような日常生活が背景にあるということだ。これを解消するには、演目によってホールを変え、適切な背景を舞台裏から取り込むようにするということだ。これは経済的に効率が悪いから、有名劇団が地方公演をして稼ぐという方式には合わない。そうなると、場面ごとの背景として適切な現実の日常風景を舞台裏から映し出すという方法しかなくなってくる。
 次に考えられるのは、舞台の中央設置だ。ホールの中央に舞台を作るのだ。プロレスリングならば、中央のリングに向かって鑑賞しても不都合はない。演劇と異なり、体全体を動かし、これといった衣装も着けずに、様々な方向に向かって何度も相手を倒すためだけの技を繰り返し出せるから問題はない。しかし、演劇にとっては大問題だ。演技に問題が生じる。役者の向きだ。演目や演技に大きな制約が生じることになる。どう考えても舞台の中央設置は特別な演出だ。しかし、演劇のスタイルによっては、これが適切なものもあるはずだから、常に頭の片隅にはおいておかねばならない。
 写真はどうだろう。写真についてはホログラフィーの発明が、その演出からの解放を実現する道を開いている。もちろん解放されるといっても、観客を意識する以上は360度からの鑑賞に堪える演出が新たに必要となったということに過ぎない。かえって難しい問題を背負うことになるのは言うまでもない。また、ホログラムを作るのは、まだ写真ほどに容易ではないということが表現の機会の自由を奪っている。
 写真は絵画と異なり、引き延ばして大きくしたり、縮めたりできるという特徴がある。また、複製を作ろうと思えば、絵画と異なり、ほぼ完全なものが作れる。絵画が劣化するのに対して、写真はうまく電子データ化しておけば、半永久的に本物と同じものが再現できる。絵画が高値がつくのに対して、写真がそうでないのは、こうした特徴の違いによると思われる。肉筆の価値というものを高く評価する姿勢は、コピー技術の進歩とともに、今後ますます高まるに違いない。当然、写真を鑑賞する場合には、そうした頭があるから姿勢に軽さが出る。複製可能だからだ。掛け替えのない一枚の絵と比べたら、大量生産の消耗品にも近いのだ。
 複写できるのだから、家のあちこちに同じ写真作品を掲げたり、同じ場所に小さく何枚も並べて同時に見ることは可能だが、結局は一方向からの鑑賞となる。ペンダントに入れて身につけることができる。これは音楽コンサートの録音をバッグに入れた再生機からイヤホンで聴くのに似ている。これがコンサートに参加した感動を味わえないのに対して、身につけた写真は一体感を感じ取ることができる。コンサートの舞台は、再生機を通して音しか聞こえず、舞台は記憶の中から拾い出してくるに過ぎないが、ペンダントの中の写真は元より音に依存することなく、相対することなく写真の実物が身につけられていることによる満足感がわくからだろう。
 映画はどうだろう。別角度からの連写など、特殊なカメラワークによって、あるいは2画面、3画面に分割することによって、一方向からの鑑賞から脱却させてくれるだろう。だが、これも手間がかかる。だから、一場面、ハイライトシーンのみの撮影工夫ということになっていくだろう。これは日常生活の自然さを追求するのではなく、どちらかと言えば不自然さを強調する道を選んだように見える。
 簡単な演出方法として極端なコマ割り、ズームアップ、ストップモーションやスローモーション、モノクロ映像、音響効果、挿入歌などの演出がある。これらは常套的な手段となっているだけあって、実に効果的だ。しかし、観客の慣れによって当たり前になってしまっている。逆にそれを利用し、こうした表現の工夫をしないことによってリアリティーを出すという演出もあるだろう。
 演劇と異なり、アドリブはない。もちろん制作過程におけるアドリブはあるだろうが、映画館に配給された時点では既に写真のごとく固定された表現になっているから、何度映画鑑賞をしても、目や耳に入る刺激は同じものだ。また、演技の向上もなければ、時代の流れ人沿ったストーリー展開や、台詞回しなどの演出変更も不可能だ。
 ベストショットということばがあるが、日常生活にこれはない。見せる聞かせるという表現活動というものは、結局そういうことなのだろう。一方向に向けてエネルギーを放出すべきなのだ。拡散してしまっては意図的に伝えたいものが伝わりにくいのだ。
 ベストショットといえば、ピューリッツァー賞を獲得した後、自殺したカメラマンがいる。飢えた幼い少女が力尽きたように道端にうずくまっている写真が話題となって誹謗中傷にさらされたからだ。幼女であろうその姿の後ろに忍び寄るかのような禿鷲が映り込んでいるのだ。誹謗中傷は「なぜ命を救わないのか」というものだ。実は、その写真は往来に人々が何人もいた中の一コマに過ぎなかったという。彼は演出として幼女らしき姿と禿鷲だけを切り取った画面の中に構成されるような角度でシャッターボタンを押したのだ。彼の伝えたかった者が鑑賞者にあまりにも衝撃的に伝わりすぎたための悲劇だ。合法的とはいえ、ねじ曲げた世界の報復なのだろうか。
 もう少し広く画面をとり、この幼女を捨て置く往来の人々の姿や、親の位置や様子をも移していたならば、もっと適切な刺激として鑑賞者に伝えるべきことが伝えられただろう。そして、彼も自殺しなくてもよかったかもしれない。恐らく、彼は選択肢を持っていたに違いない、どちらの演出を選ぶべきかしばし考えたに違いない。出した結論は、鑑賞者の反応を読み間違えたものだった。賞は取れなかったかもしれないが、もっと深い意味を持たせることのできた本当の意味でのベストショットが彼のフィルムに残されているはずなのだ。もし、誹謗中傷が原因の自殺ならば、なぜあのとき別の選択をしなかったのだろうということを悔いてのことだからだろうからだ。
 演出一つで意味合いや事実までもがどこまでも大きく曲がって伝わる世界になっていることを今後の表現者も心しておかねばならない。そうした残念な世界を作っているのが、ネットだ。鑑賞能力や年齢や性別や国籍や文化や、そうした諸々のものを取り払ってどこまでも情報が突き進んでいく。そして、保存され、必要以上の人々の目にさらされるのだ。以前ならうまい具合に情報が広がり、うまい具合に解釈され、うまい具合に忘れ去られて、自動調整されていったのかもしれない。それした安全弁が薄くなっているのだ。
 表現者にとっては恐ろしい世界だ。録画が氾濫し、活動もままならなくなる。大げさかもしれないが、一部の生き残った表現者だけが幅をきかし、淘汰されないままのバランスの悪い刺激を与え続けてやまない時代が到来するとしたら、その中でどのような感覚を持って生きていったらよいのだろう。どのみちそこまでは生きていられないからよいようなものの、なんだかそら恐ろしい。
 ところで、カメレオンのような「視線ばらばら型」、草食動物のように「視界左右型」の生き物が進化して、映画を作ったらそれぞれどのようなスクリーンになるのだろう。そんなことを想像しながら映画を見るのも面白い。どんな演出が彼らの感覚の自然さや不自然さを組み合わせて作品を組み上げていくのだろう。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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