突然思い出したこと159「ブルカ」

 イスラム社会の中にブルカというものがあることを突然思い出した。
 女性の全身を包む独特の衣装だ。ほとんど全身を覆い尽くしてしまうデザインなので、着ている人の体形はおろか、顔すらも見えない。つまり、イスラム社会では滅多なことで顔を他人に見せてはならないという文化があるということだ。他民族からすればおかしな文化だが、文化である以上はそれなりの論理があり、その世界にだけ通用する合理性を持っているはずだ。 
 その世界だけに通用するというと、まるでイスラム社会が特別であるかのように表現しているかのように受け止められてしまうかもしれないが、その点についてはどの社会も同じだ。どの社会も普通で、どの社会も普通ではないといってもよいだろう。ただ、人が衣服を持たない状態から、衣服を持てる状態になり、衣服を着用するになってきた経緯を考えると、さらに発展して顔や手までを覆ってしまう衣服を身につけるまでに進んでいく文化の道筋も派生してくるのは至極当然のことだ。
 もちろん、文化であるからには一定範囲の勢力圏を持っており、他の文化との交流や反発の関係を持ちながら、それを維持する方向で意図的に積極的な愛好の対象とされていたり、あるいは、無意識、無抵抗のうちに、人の営みを人の営みたらしめる、ものの見方や考え方の基盤となっている。また、始まりがあり、変化とげて、役割を終え、終わりを迎える。
 一人一人がその文化を享受しながら、その文化を支え、さらには進展させていくことこそが、その社会において幸せに生きていくための常套手段となっている。だから人々は、その文化によって成立している社会から物理的に離れたり、その社会の中で自分の存在価値が認められなかったりすることに対して恐怖を感じる。そして、自分を自分たらしめている所属文化を否定されることに対して拒否反応を示し、我が文化を否定する者に対する憎しみを抱くのだろう。僕たち人間の多くは、まだそのレベルにとどまっている存在なので、他の文化を物珍しがって好奇心の対象として振る舞うか、忌み嫌って排除すべき対象として破壊にむかうか、このどちらかに傾いてしまいがちであるように思う。
 イスラム社会に住む人々の心や文化を、その文化の圏外に生まれて育った僕たちは、正しく理解することはできないはずだ。同様に、イスラム社会に生まれて育った人々も、僕たちの心や文化を、正しく理解することはできないと思う。新聞、雑誌、教科書、百科事典、図鑑、インターネット、一般書籍、専門書、報告書、論文など、あらゆるメディアを活用して積極的に理解してきたつもりのものであっても、情報や知識を得るたびに、少し考えれば実に形式的で部分的な理解に過ぎなかったということに気付く。その上、それらの理解の断片も、自分の中でお互いに関連づけられて体系化されていないために、どの分野のどの事柄の理解が不十分であるのかも、意識されない状態にあるように見える。しかし、残念ながら、この状態が一般的であるように思う。これが残念ながら、物事に対する僕たちの理解の現状だ。
 さて、一見特異な文化の象徴であるかのように、他の文化に所属する者から思われてしまうブルカだが、人目から我が身を隠すという点で非常に徹底している。その意匠よりも、その服飾文化を支えている精神文化を見極めなければならない。
 ブルカは、視界確保のために顔面を覆う布に対して穴を網目状に多数開けてある。ブルカをはじめとするイスラムの女性を覆い尽くす衣服には、様々なものがあり、隠すレベルに異なりを見せている。
 そのレベルの異なりがどのような理屈によるものであるかは追究されなければならないが、すべてを覆い隠すタイプ、両目以外を覆い隠すタイプ、顔面以外を覆い隠すタイプ。髪の毛だけを隠すタイプ。いろいろだが、結局は隠すという「制限」を文化としている。これは食材に制限を設けているのと、根本的なところでつながりがあるのではないかと予想する。
 体形を隠すという機能は、もともと衣服がもっていたものだ。しかし、それは同時に表現の手段でもある。表現することによって体形を隠したり、表現することによって注目してほしくないところへの視線を外したり、表現する工夫がそのまま同時に体形を整えたりするのだ。「隠蔽」だけに特化した、ブルカを始めとする類似衣料は、隠す機能を拡大しすぎたことによるアンバランスのために、衣服が持っていたたくさんの機能を失ってしまっているように見える。造形的表現による「装飾」「補正」「補強」「表現」「主張」などを捨て去り、あまりある「隠蔽」の効果を絶大にした、その訳を知らずして、イスラムの文化を知る手がかりは得られないと思うのだが、どうだろう。そして、その「隠蔽」の効果とはいったい何だろうか。
 また、本来の衣服の機能にはどのようなものがあり、それらの機能が隠蔽機能の増大によって失われたときに、どのような弊害が起こるのだろうか。その弊害と恩恵をどのようにイスラムの女性は天秤にかけているのだろうか。思いつくままに書き並べ、そこからイスラム文化の一側面を推し量りたい。まずは、ブルカの弊害は言うまでもないので、その恩恵を想像してみよう。

①幼い子供が母親を見失いやすく、母子だけで外出した場合には、迷子になる確率が高くなると思われるが、子供はブルカの色合いや装飾部分や微細な特徴、体格の輪郭、声、持ち物などによって、他のブルカ装着者と自分の母親を区別しようとするため、観察眼や集中力を養うことができる。

②子供は母親を見失わないようにするため、外出時はあまり離れないようにするであろうから、母親の庇護を受けやすくなり、母子の絆を深めることができる。

③外出時、常に視界の中に入るような位置に子供を歩かせることになるので、迷子以外の危険も比較的容易に回避することができる。

④網目の小さな隙間から外を見るので、視界が非常に悪いが、編み目越しに外を見るので、視力が低い場合でも見え方をやや改善することができる。

⑤上下左右の視界が狭く、耳も覆われているので、危険回避の判断が遅れて危険にさらされやすいが、子供や夫が近くにいれば、彼らからの情報により、危険回避は成功するので、周囲への依存度が高くなるとはいえ、信頼や感謝の気持ちを育むことができる。

⑥紫外線からの悪影響を受けにくく、肌の衰えを必要以上に化粧で隠す必要がないため、化粧に費やす時間と経費を節約することができる。

⑦容姿の良し悪しや体形の情報が遮断されるだけでなく、皆なりが同じなので、人格や物腰、知性や教養を高め、個性を磨く方向に努力を傾けることができる。

⑧容姿の比較や性的な興味本位の男性の視線を受けることなく、女性として平等な扱いを男性から受けることができる。

⑨男性に対する刺激を与えないため、性的被害をある程度は回避することができる。

⑩容姿や装飾品、服装や持ち物についての同性からの嫉妬を受けにくく、いじめ等の被害を減らすことができる。

⑪寝起きの無愛想な顔や髪の乱れを気にすることなく、急な外出が可能となる。

⑫手の不自由、火傷や事故、手術の跡がひどくても、さほど気にすることなく、自由に外出が可能となる。

⑬埃や風、炎などから身を守ることができる。

⑭死亡事故が起きた場合でも、暫くの間は周囲に死に様をさらさないようにすることができる。

 まだまだあるかもしれない。マイナス面と同じぐらいにプラス面はあるはずだから、本当は、これと同じだけのマイナス面を挙げていかねばならないだろう。実際には本人たちにインタビューして確かめなくてはならないが、当の本人でも理解していない文化の成り立ちや変遷があることもよくあることだ。それを知っていてブルカを着用しているのと、あえて着用しないのとでは、プラス面、マイナス面のとらえ方にもかなり異なりがあるように思う。
 文化の成り立ちや変遷を知ずして、その文化の産物を身につけていることは、文化の形骸化とも言えるが、定着とも言えるだろう。それは役割を終えた文化の化石のようなものだ。堅く固定され、変わることがない。化石には化石の美しさがあるように、形骸化した文化にもそれなりの美しさがある。語弊を恐れず言えば、美しさ以外には何も持たないそれは、陳腐な言い方かもしれないが、純粋な美しさであるといってもよいのかもしれない。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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