恐怖シリーズ184「駄洒落の運命、言葉の運命」

 語彙の量が少ない人に対して駄洒落を発しても、語彙が少ない分だけ駄洒落が理解される確率が低くなるため、その駄洒落はうけが悪くなり、駄洒落の評価は落ちる。その駄洒落はただの駄洒落なので、元より洒落よりもつまらないのだが、そのつまらなさ自体や駄洒落が生きる当意即妙の反応のよさ、そして新しい発見のように感じられることによる面白さ、また言葉をもてあそぶ面白さなども捨てがたいため、駄洒落作成愛好家や彼らが発する駄洒落を気軽に楽しむ駄洒落鑑賞家のような存在は無数に存在する。彼らは新しい駄洒落を求め、人と人とのつながりや短時間の安息を築き上げようと一定の努力をしているように見える。確かにこれは、お金もかからず、場所もいらず、極めてわずかな時間しかかからないのに、瞬時に場を和やかにする効果があるので、たいへん重宝なものだといってよい。
 しかし、駄洒落を何度も聞かされると次第に我慢できなくなってくる。それが同じ駄洒落の繰り返しであった日には、もう最悪の精神状態になる。辟易ということばが駄洒落の連発に対して作られた言葉かと思うほどに、辟易とするのだ。繰り返されることによって、駄洒落の命である当意即妙の反応のよさは感じられなくなのだ。駄洒落が人も含めた場の産物ではなく、駄洒落だけが切り取られて注目されてしまうため、駄洒落が駄洒落でしかなくなってしまうのだ。駄洒落はあくまでも言葉の表現技法の一つ。つまり、単なる飾りにすぎない。それが主役張りに目立ち始めた途端に陳腐なものになってしまうのは道理だろう。
 ところが、これを電波に乗せてテレビやラジオで流し始めると、駄洒落が最も避けなくてはならぬ繰り返しが多くなるだけでなく、日本のいたる所で同じ時j期に同じ駄洒落が跋扈することになってしまう。このことが駄洒落の命だけでなく、駄洒落を構成している言葉のみならず、言葉全体の命も縮めていく方向性を形成してしまうことを恐れる。言葉の命とは、言葉が持つ内容とその内容を伝える力の強さだ。
 さて、テレビ番組の制作者はかかる費用を抑え、視聴率を上げなければならない。制作意図というものがどこにあるのかを番組ごとに確認したいものだが、もしマスコミ人としての誇りを捨て、費用対効果という最低の基準によってのみ判断するという愚を犯すことがあれば、それは許しがたいものとしてとがめなくてはならない。放送すべきではないものを放送するのは法に触れる行為であるはずだ。
 駄洒落の扱いについてここまでいうのは、神経質、かつ大袈裟なことだと、普通ならそう思うにちがいない。しかし、どのような一大事でも全て始めはほんのわずかな一歩から始まるということを忘れてはならない。今生きている人が生きている間には、まださほど悪影響は出てこないかもしれないが、どうにも手の施しようもないところまで事態が悪化していくのは、五十年後か百年後か分からないが、今の状態を放置して手を打たねば、いずれそう遠くはない未来だと感じる。
 もし、単なる視聴率目的だけで、安易な制作をするようなことが起きているとするならば、現在の番組内容のつまらなさが際立っている理由の多くは理解できる。面白ければ視聴者は群がって当然だが、その面白さを勘違いしているわけでもないのに、たいして面白くないものを作り続けるのはなぜだろう。お笑い番組に限らず、敢えて面白くない番組構成にしようとしているのか、また敢えて面白くない人たちを起用し続けるのか分からないが、それなりのそろばん勘定は必ずあるはずだ。
 たとえば、語彙の少ない人々も視聴率アップに貢献してもらえるようにしたいと担当者は考えるかもしれない。たくさんの種類の語彙を駆使してよい番組を作っても、理解しにくいと思われてしまったら最後、「面白くない番組」にランキングされてしまう。そのように評価する人々が増えるとスポンサーとしては非常に困ることになるからだ。もちろん、スポンサーにとっての国民は、語彙が豊富で感性と知性がともに豊かな国民がベストだ。ドラマやニュース番組の制作、コマーシャル番組の制作において、プロたちがより自由に魅力ある作品を多く生み出すことができるからだ、そして、商品なり企画なりを適切に表現することができるからだ。
 だが、そうはうまくいかない。実際には、語彙が豊富で感性と知性がともに豊かな人は少数派だからだ。そうなると、スポンサーは教育に力を入れてそのような理想的な人々が少しでも増えるように努力すればよいことになる。だが、その結果を出すためには長い年月がかかってしまうため、商品を他社と競り合いながらタイミングよく小出しによいものを世に出すという小さなサイクルに全く合わないという問題点が生じてしまう。実際、一歳児や二歳児の語彙の量はかなり少ないうえに、人生経験を積んでいないから、感性も知性もまだ低い。そこから何年たてば一人前になるのかという話だ。
 では、どうすればよいのか。全国の多くの書店が苦渋の選択をしている、それと同様のことを行う判断を下さなくてはならなくなる。読んでほしい本を棚に置くのではなく、売れる本を棚に置くのだ。つまり、少ない語彙の持ち主に合わせて番組を制作するということだ。
 番組制作という話にしてしまうと、あまりに話が広くなってしまうので、ここは一つ、駄洒落を例に話を進めていこう。
 生きているほとんどの人に理解できるような駄洒落を言える人材を集めることになる。しかし、いくらたくさんそのような人を集めて番組作りをしても、語彙の少ない中で勝負しなくてはならないため、必然的に駄洒落の数が限定されることになる。よって、繰り返し使用することがさらに多くなり、繰り返しに絶える駄洒落しか生き残れなくなる。生き残った駄洒落も、それも結局は短期間で飽きられてしまう。伝統的な駄洒落として時折使用されるような身分に昇格しない限り、消えていく運命しか残されていないのだ。数が少ないということはそういうことだ。
 マスメディアに乗ってしまうと、駄洒落に限らず、異常な繰り返しと異常な伝播性によって、賞味期限が極端に短くなるのは道理だ。そういう意味では、マスメディアは伝える言葉や事柄の命を短くしたり薄くさせたりするという矛盾を持つ。情報の使い捨てといってよいかもしれない。
 ところで、駄洒落はおやじギャグということになっている。おばさんギャグというのはないのか。子供ギャグというのはないのか。おばさんや子供にはギャグがないのか。彼らはギャグを必要としないほどに面白いのか。芸人のギャグの物まねは得意のようだが、観察する限りにおいてはオリジナリティーはないようだ。親父がセンスがないのは仕方がないが、おばさんや子供がセンスがなさ過ぎて、何も生み出せないでいるのではないかと、将来のお笑い界の行く末を案じてしまう。鱗のようにはがれ落ちてしまうものはたくさんあっても、骨太のしっかりしたお笑いがどこにも見当たらなくなってしまったのは、僕の感性が衰えてしまったせいだけではないように感じられてしまうのが、何となく寂しい。
 昔、「寅さん」の「男はつらいよ」の同じ作品を、東京と大阪で見たとき、観客の笑いの反応とその場面が全く食い違っていて、衝撃を受けたことを思い出す。そのときは単に文化の違いかなと思った程度だったが、今思うと、監督、脚本家の作戦なのだろうということを思う。東京でも大阪でも両方でうけるように、計算して作られたのではないかと最近思うのだ。大阪から東京に進出するお笑い芸人はどのように計算するのだろうか。全国ネットで放送される場合と、そうでない場合とでは、異なる方法で笑いをとらねばならないことだけは確かだ。
 そのときも、語彙が少ない人々にも理解できるようにする努力が、笑いの質の低下につながらないよう、十分に注意しなくてはならない。話芸で身を立てている自分の首を絞めることになりかねないからだ。忙しさにかまけ、その場の笑いをとるというということをしているのならば、芸人生命までもが縮んでしまうことになる。テレビに頻繁に出演するということの恐ろしさを感じる。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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