恐怖シリーズ185「人間らしい」

 自分の目ほど信じられないものはない。なぜなら、自分の目で見た物事は、自分の目で見てきた経験から得た見方や判断の基準でしか、評価できないからだ。
 その「頼りの自分の目で見てきた経験」にしても、長くて数十年、短くて数年、いや数日かもしれない。それも意図的に磨いてきた技術によるのではなく、単なる生活経験による何となくできあがったものでしかない。たとえ、意図的に磨いてきた目を持っていたにしても、それは単に自分の専門分野で何かを追究する中で得てきたものでしかなかろう。いや、自分は広い視野を持ち、遠く未来を見据えて物事を見ているのだ、という立派な人物もいるのだろうが、残念ながら未だかつてお会いしたことがない。もっとも、「類は友を呼ぶ」のだから、それも仕方があるまい。
 そこで、本を読む。耳学問をする。誰かに相談する。あるいは師事する。そうする中で、結局は自分の頭で考える。だから、頼りない。頼りないから、いつまでも追究する。だが、それでは埓があかない。いつまでも判断できない。行動を起こせない。
 では、どこで踏ん切りをつけるのか。「あの本に書いてあったから」「テレビで放送していたから」「法律に触れないのだから」「法律に書いてあるから」「みんなもそのように言っているから」「あの方がおっしゃるのだから」「本人が言うのだから」「前にもそうだったから」等々。これでは話にならない。何も考えてないのとどこが違うのか。何も見えてないのと同じだ。
 物事を見るというのは、物を見ることから始まり、その物がどのような状況を作り上げているのかを読み取り、その状況の背景を見抜くところまでのことでなくてはならないはずだ。物も状況も背景も、日々変化して目まぐるしい。確かに、目まぐるしく変化するものを相手に、その都度反応しているのは非常に不経済だ。
 だからといって、「世の中の流れがそうだから」式に、自分の頭を使わないでいたら、生活の意味が単に生きているという意味になってしまう。それは人間らしい生き方とはいえない。人間らしく生きることによって個人的に破滅を招いたとしても、それは本望ではないのだろうか。仮に人類を破滅に招いたとしても、それはそれで人類の役目が終わったというだけのことだろう。
 これまで滅んだ種は、己を繁栄させた、その同じ理由で滅んでいくという。それが本当ならば、人間が考える葦である以上、考えることによって反映し、考えることによって滅ぶということになる。それで滅べば本望ではないか。
 持続発展ということが喧伝され始めているが、それはもう滅びのパターンを踏み始めたということの証だろう。それから逃れることはできないだろうが、少しでも延命はできるかもしれない。そのようにもがいてがんばるのも人間だ。どこまでも人間らしく、人間を全うすれば、それでよいのだと思う。
 これは厭世的なものでもなく、人間嫌いというのでもなく、ただ「物事をよく見て、よく考え、より人間らしく生きる」という、人間としての本来の生き方、善悪が区別される前の業といってもよいのかもしれないが、それを否定することなく、職務も含めた、この世での自分の役割と決めたものを全うしなければならないという、純粋な使命感で言うのだ。もっとも、純粋だから無反省で、きわめて危うい。
 だが、危ういからこそ、それが何か生きる魅力のようにも感じてしまうのだ。これは本当に恐ろしい感覚だ。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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