突然思い出したこと161「二十歳の僕」

 成人式の夜。
 迷ってはいないのだ。選択肢が思いつかないのだ。選択肢が思いつかないのではない。状況を理解していないのだ。状況を理解してないのではない。情報を情報としてつかんでないのだ。情報を情報としてつかんでないのではない。情報が足らないのだ。情報が足らないのではない。何かに心を奪われているのだ。何かに心を奪われているのではない。結局は迷っているのだ。
 だとすれば、心を開くだけだ。心を開くだけではない。理解できた全てを受けとめるのだ。理解できた全てを受けとめるだけではない。理解できた全ての関係をつかむのだ。理解できた全ての関係をつかむだけではない。自分との関係を見いだすのだ。自分との関係を見いだすだけではない。なすべき行動を選択するのだ。なすべき行動を選択するだけではない。いつどの程度行動するか考えるのだ。いつのどの程度行動するか考えるだけではない。体を張って実行することだ。体を張って実行するだけではない。実行することで、理解できた全ての中に己を組み込むのだ。実行することで、理解できた全ての中に己を組み込むだけではない。組み込んだ己によって、理解できた全てがどう変化したかを確認するのだ。組み込んだ己によって、理解できた全てがどう変化したかを確認するだけではない。変化の仕方から推し量り、理解できる範囲を広げるのだ。変化の仕方から推し量り、理解できる範囲を広げるだけではない。最終的には意識的に心の開き方のレベルを高めるのだ。
 そのためには、書を読むことだ。書を読んで、完膚なきまでに打ちのめす論を組み立てるのだ。書であるから大丈夫だ。誰も打ちのめされない。そうしたら、己の組み立てた論を完膚なきまでに打ちのめす論を、書とは別の立場から組み立てるのだ。打ちのめされるのは己だから大丈夫だ。いくつか生まれた論を、常に頭の中に漂わせ、使われる時を待つのだ。ニュートラルだ。時が至れば間髪入れずに発動させるだけだ。いや間髪入れずに発動する時が生じるように、合法的、倫理的、合目的的に仕組むのだ。
 必要なものは、適切な資金と、豊かな人脈と、身の潔白さと、早すぎず遅すぎずに行動するセンスと、敵に愛される魅力と、新しい発想で問題を打開する力と、己の命を費やす潔さ。ないものねだりだが、時だけはある、思いだけはある。そこから形作られるものを上手に配置して、ないものを補っていく。消えていくものよりも、補う流れの方が豊かであればよい。この抗い、この緊迫感、これが生きるということなのだろう。
 懐かしい二十歳の僕のつぶやき。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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