恐怖シリーズ204「報道問題の報道がないこと」

 報道に危うさがあるとすれば、編集された報道内容、報道頻度の妥当性、伝え手に左右される報道効果、報道責任の取り方、報道内容に対するコメントの取らせ方、そして報道管制への対応の在り方、報道における自主規制の在り方に関するものなどが主なものだろう。
 問題とすべきであるのに問題とされないもののうち、最も話題にならないのが、「報道の責任」だ。それは同じ枠内で、自らの責任を云々するのは、やはりそれがしっかりしていない以上は自殺行為だからだろう。しかし、「報道の自由」がある以上、それと同等の重さと捉えていなくてはならない問題だ。
 当然、その問題は、報道準備段階で意識する組織内レベルの「責任」だけでなく、大きな影響を及ぼす報道先に対する「報道後にとるべき実質的な責任」だ。
 「真実は伝えられなければならない」という理屈は一理ある。他の理屈と同じで、一理しかないということだ。一理しかないのがよくないというのではない。万能ではないということだ。
 もし、その理屈が万能ならば、セキュリティーは不要ということになる。真実にもいろいろな真実があるのに、つかんだ真実のうち、どの真実を、どのタイミングで、何によってどのように報道するかということを熟慮しないと、報道の責任はとりきれなくなる。
 報道責任の取り方にもいろいろあるが、どのように責任を取ったのかという報道は目にしない。すると、無責任で通しているのだろうか。
 新聞で言えば、誤報に対する謝罪は極めて小さい記事でなされる。まさかそれによって報道の責任を取ったと考えてはいないだろう。それは責任をとることのスタートであってゴールではない。そのゴールを報道すれば、信頼が高まると思うのだがどうだろう。それがないと無責任ということにされてしまう。
 少なくとも、新聞の誤報に対する謝罪は、小さい記事ではなく、誤報に費やした紙面の面積を上回るものであるだろう。滅多にはない、しかも目立たない、しかも一度きりの謝罪は、明らかに一般の謝罪からすると甘い。
 この自分に甘くて他人に厳しい体質は、既にいやらしさを購読者に与えている。新聞離れが甚だしいことの根本に何があるかと分析したとき、この点が最も大きな要因かもしれないと思うのだがどうだろう。新聞社に限らず、自社で分析している間は、真実に対する無意識の無視がはたらくので、浮かび上がってくることはないものだとは思うが、どうだろう。
 どうしたら健全な報道が成立するようになるのだろう。戦争に国を導くのに最終的にはたらくのは誰あろう「報道機関」であることは間違いない。今のうちに「報道問題の報道」をすれば、自浄作用がはたらくようになるに違いない。
 それが無理なら、「報道問題の報道」を専門に行う機関を設立するしかなくなる。これはこれで何か問題が起こりそうなものを大きく孕む可能性を持っている。少し考えただけでもいろいろな問題が出てきて、その影響が恐ろしいのが報道問題だ。
 まずは新聞社には購読者を正しい方法で増やしてほしい。つまり、記事のレベルを上げるということだ。そうすれば必ず購読者は増える。そして、若者たちの成長も見込める。そうした努力こそが、目に見える報道問題や目に見えない報道問題を解決していく早道だろうと思う。これで恐怖も解消。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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