突然思い出したこと171「谷川俊太郎の<うそ>」

 世の中は「うそ」に塗れている。もしかすると、「うそ」しかないのかもしれない。でも、それでうまくいっているのかもしれない。だから、その「うそ」は「ほんとう」なのかもしれない。
 「うそ」にはいろいろある。「ほんとう」だと思われている「うそ」もある。「うそ」だと思われている「うそ」もある。「ほんとう」であってほしい「うそ」もある。「うそ」であってほしい「うそ」もある。罰せられる「うそ」もあれば、感謝される「うそ」もある。同じように、罰せられる「ほんとう」もあれば、感謝される「うそ」もある。「ほんとう」のつもりで言ったのに「うそ」になってしまった「うそ」だってある。「うそ」から出た「まこと」ということもある。昔話、物語、小説、演劇、映画などに至っては、「うそ」でなくては面白くないから、「うそ」がなければ「ほんとう」ではない。挙げだしたらきりがない。人間は「うそ」と一緒に生きているようなものだ。いやいや、人間自体が「うそ」の生物である可能性だって考えてしまうこの頃だ。
 整形手術は「うそ」の容姿を実現するものだ。だけど、その「うそ」の容姿が、「ほんとう」のその人となりを表現している場合もあるだろう。一日一善の活動も、自分の心に「うそ」をついて善を為している。そうして「うそ」をついているうちに、それが習慣となり、人となりとなって「ほんとう」の自分になるということもある。「うそも方便」ということばもある。誰かが不当に利益を上げたり、誰かが不当に苦しめられたりするような「うそ」は駄目な「うそ」で、その逆は駄目な「ほんとう」だろう。
 ところで、スポーツの世界では「フェイント」が「うそ」で、それは正当な「うそ」だ。スポーツはだから「うそ」の塊だ。これは団体スポーツや格闘技のスポーツだ。マラソンには「うそ」はないかもしれないが、駆け引きはあるだろう。駆け引きは大きな意味で言えば「うそ」なのかもしれない。すると、100m走やハンマー投げのような種類のスポーツは、どうにも「うそ」がない。あるとすれば、試合前の情報戦か、ドーピングだろう。なんとも「きよらか」ではないか。だが、マラソンのほうが汗をかく。走りながら、苦しくて痛くて涙だって出るかもしれない。人間はそうした他人の汗や涙を好む。それが見たいとさえ思う。それはどういう心理からだろう。
 スポーツではないが、座禅という修行がある。座禅には「うそ」があるか。座禅で無の境地に入る人もいれば、全ての物事がよく見えるようになる人もいるだろう。自分と否が応でも向き合って、さらに悩む人もいるだろう。でも、そのことによってこれまでの悩みが小さなものに思われ、逆に救われる人もいるかもしれない。座禅は黙っているから「うそ」は言えない。でも、内言で自分に「うそ」をつくというプロセスを踏むかもしれない。しかし、だんだん疲れて、何も考えられなくなって、つまり、「うそ」をつき続けられなくなって、自己破綻し、遂には生まれ変わる人もいるかもしれない。
 詩人、谷川俊太郎氏の「はだか」という詩集に次のような詩があるのを突然思い出した。

谷川俊太郎

  うそ

 ぼくはきっとうそをつくだろう
 おかあさんはうそをつくなというけど
 おかあさんもうそをついたことがあって
 うそはくるしいとしっているから
 そういうんだとおもう
 いっていることはうそでも
 うそをつくきもちはほんとうなんだ
 うそでしかいえないほんとのことがある
 いぬだってもしくちがきけたら
 うそをつくんじゃないかしら
 うそをついてもうそがばれても
 ぼくはあやまらない
 あやまってすむようなうそはつかない
 だれもしらなくてもじぶんはしっているから
 ぼくはうそといっしょにいきていく
 どうしてもうそがつけなくなるまで
 いつもほんとにあこがれながら
 ぼくはなんどもなんどもうそをつくだろう

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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