突然思い出したこと172「次期メール方式を想像」

 スマホ等で操る各種メールが普通であることの不便というものを突然思い出した。つまり、生まれたときの環境がそうである最近生まれた人々の生活の何と不便なことか。それは比較できないから、又聞き程度にしか感じ取れない不便さだろう。だが、その又聞きもできないほどに年月が10年、20年と経っていく。
 現状の各種メールには、素早さ、いつでも、どこでもという便利さしかない。その点については、とてつもなく便利なツールだ。それだけで十分でしょうと妥協する人々が増えたということもあるが、そうした人々が増える環境をメールが作ってきたということもある。どちらかと言えば、後者が始まりだろう。
 そうでない人々、年配の方々は昔を思い出してみよう。冷静に考えてみると、即時的に時と場所を選ばすに通信できることの代償は大きかったことに気づくだろう。これは価値観の問題ではない。いや、価値観の問題だが、価値観の問題ではないと言うべきか。
 何が不便かと言って、メールでは大雑把な意味しか伝わらないのだ。そのうちに大雑把なやりとりで済むような生活しかしないようになるおそれがある。
 メールには下手をすると表面的なやりとりに陥る条件が大いにあるのだ。基本的に日本語の力がある程度以上なければならない。短文、省略語、文字数の絶対量の少なさ、一覧性の欠如や短時間での文章作成による見直し不足、その他諸々の原因で、意味の取り違いが多くなることは容易に想像されるからだ。とは言え、これがお互い様の状態になるから、それが基本の状態となるため、実際の不便な感じはわいてこないだろうとは思う。
 これは比較できる状況にある人々のみが感じる不便さの一つだ。比較ができるほどの年数を生きてきていない今時の人々にとっては気づかないかもしれない不便さ。今後は、気づけない不便さになっていくだろうと思うと、それはそれでよいのかもしれないとは思う。何か不便さを感じたら、なおざりにして問題にしないか、全く別のことで誤魔化すか、偽物の便利さに目を向けるか、根本的に解決しようと真剣になるだろう。それぞれどれほどの割合で出現するかが見ものだ。余計な口出しは無用だ。
 だか、年配の方々は今後も生きていく。だから、この後のことも気にはなると思う。最もよいのは、所謂メール、つまり電子メールと、元々のメール、つまり紙媒体のメールを、使い分ければ済むことだ。使い分けることで、いいとこ取りができる。どちらか片方では不便さを感じつつ、あるいは感じることができないままに、お互いにこれが正しいのだと信じているという、滑稽な状況に陥る。
 だが、電子メールも、紙媒体のメールも、それを併用しても不十分だと感じている人々がそろそろ出現してもよさそうな頃だ。その前段階として、機器をポータブルからウェアラブルにするということがある。それはまだ第三のメールとは言えない。目指すところはテレパシーなのだから、そこへ一歩近づかなければ第三のメールにはならない。
 いくつかの選択肢を持つことが大事なのだろうと思う。そして、どれか一つに偏り始めたら、自分の生き方を振り返るか、相手を強化し直すかか、選択肢を狭めようとしている動きを疑うかする。新しい生活が見えたら、それを支えるべく、これまでにない新しいメールの方式が生み出される国だとまだ思いたい。必要に応じた新しいツールを生み出そうとする気概。この際、逆でもよい。ツールに応じた新しい生活を創造する気概。
 そうした気概を持ち、目を輝かせている若者が、きっと数多くいるに違いない。いつの世の中でも恐らくそうであったように。ただ、そうした若者が、特有の性急さによって無数のギャップを感じ、故に無力さを感じ、さらに疎外感をいだいて、自殺したり、道ならぬ道に迷い込み、最後は犯罪に手を染めるということが往々にしてありはしないかと。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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