突然思い出したこと175「天長節と地久節」

 急に「天長節」という言葉が頭に浮かんだ。これは何だったか。何の脈絡もなく、突然言葉が頭に浮かぶのだが、その言葉の意味が即座に出てこないときがままある。これはやはり年のせいだろう。思い出すという努力をしてから調べないと、さらに粗悪な脳になりそうだ。
 認知症予防は早いうちから始める必要があるという。頭に適度な負荷をかけてわかるところまで思い出し、そこから先は推理する。そうした作業を課した後に、適当な頃合いを見計らって調べることにした。
 「天長節」は天皇誕生日だった。なぜ、この言葉が頭に浮かんだのかといって、それがわからない。何かの本で読んだか、辞書を読み込んでいた時期(といっても刑務所にいたわけではない)の記憶が不完全な形で残っていたのだろう。調べていくと、関連のある言葉として「地久節」というものも記載されていた。こちらは皇后様の誕生日だ。
 男女平等の世の中にしたいのならば、姑息な努力を積み重ねるのではなく、まずこの辺りからスタートすべきかもしれない。「天長節」が「天皇誕生日になったのなら、「地久節」とともに持ち出して再び世に知らしめ、「皇后誕生日」として新たな祝日にしてもよさそうではないか。
 ただ一つ問題がある。世に「天と地ほどの差がある」という決まり文句があるからだ。その「天」と「地」が、「天長節」と「地久節」に用いられているのが問題だ。だが、本当は何の問題もない。「天」も「地」も宇宙だからだ。天から地が生じたといってよい。つまり、天よりも地のほうが進化した状態のものだ。結局は同根のものだから、平等と言える。
 このように、とやかくいわれるところの平等というものは、あり得ない平等であって、本当の平等とは異なるものであり、現実的ではないものであるという仮説を、敢えて掲げなくてはならないのは残念なことだ。だが、「天と地ほどの差がある。」という決まり文句で学習されてしまっている頭からは、そのような判断は生まれては来ない。そうした人々に対してはどのように対応したらよいのだろう。
 たとえば、「地に足がついた活動をしなくては。天ばかりながめていては話にならんだろう。理想を語るのはよいが、この現実のうえに成り立つもので勝負をしなくちゃ。周りを見て判断しようよ。でないと、見上げてばかりいると、何かにぶつかるか、穴にでも落ちるか、迷子になるかしてしまうじゃないか。」という苦言の例を挙げたらよいのだろうか。それとも、「天は太陽などからエネルギーを与えてくれる。そのエネルギーを受けて地が生命を育んできたのだ。」という歴史の例を挙げたらよいのであろうか。「天の恵み、大地の恵み」はそれぞれ異なる恵みだ。でも、同じ恵みなのだ。
 「天地人」という語句もある。「天」から「地」がうまれ、「天地」の恵みを受けて「人」がうまれるという順番だろう。これを書道作品の評に使ったりするから、また誤解が生じる。地位の高さではなく、ただの順番なのに、質の高さと関連づけられてしまったのだ。言葉に引っかかりを覚えるタイプの人間は、その言葉だけに注目するのではなく、その言葉がどのように使われているかを見なくてはならない。その姿勢を忘れたところに、ありもしない問題が創出されてしまう原因がある。その裏には悪意がある。もし悪意がないのであったら、単なる愚かな判断ということになる。
 さて、休日と言えば、日本人は働き過ぎだからもっと休めと、高度経済成長期以来、欧米社会から言われ続けてきた。そして、その意に従うかのように、休みの日が増やされていったという経緯がある。もし、そうした外力をきっかけとした国内の動きがあってのことだとしたら、それは結局のところ外力に弱いと表現されても仕方がない。その働き過ぎに伴って浮上する「過労死問題」は、ILOからの苦言も重なってきたことや、それが自殺の形式をとる事件が漸く大きく報道されるようになり、最近再び大きな話題となってきた。墓石行政の典型だ。どうしてマスコミはこれまで多くあった関連事件を真摯に受けとめて然るべき報道をしてこなかったのだろう。単なる事実としてときどき小さく紙面の片隅に、埋め草程度としてしか思われないように扱ってきたのだろう。そもそも、情報を掲げるかどうかの判断を誰がしていたのだろう。もちろん、編集責任者に決まっているが、それが誰だったかということだ。マスコミは庶民の味方だと思わせていただけなのだろうか。
 この大問題も、いつのまにか働き方の問題という名前にすり替えられているが、実は部下の生命の管理もできない日本の企業の体質が問われているのだ。それは日本の体質が企業に反映されているからに他ならない。だから、働き方問題なのだけれど、ネーミングが適当ではない。やはり、「労働における人権問題」というような重い響きを持ったネーミングにし、深刻な感じを出さないと、まずいのではないだろうか。問題解決のスピードや深さまでが、ネーミングによって影響を受けそうで仕方ないのだ。それよりも、名付けた人の感覚が反映されているようで、生ぬるさを感じるところに危機感をぬぐい去りきれないのだ。これは、「児童の行う人権侵害問題」を「いじめ問題」というように、幼く優しい字面にしているのよりも、見方によっては悪質だ。
 そうした問題を抱えている日本という国が、世界からどう評価されているかということが第一の問題。第二の問題は、この問題に対してどう対処していくのかという手際の良し悪しを、やはり世界から見られていることだ。
 国際社会で「過労死」という日本語が通用するようになってから、既に2、30年は経つ。これをどうして日本語にしたのかは、例によって日本を生け贄にしておくという魂胆なのだろうが、忌々しいことだ。国際語と言われる英語にすべきだろう。平気で「過労死」という言葉を世界にはびこらせていてはいけない。国家のトップの無能、企業のトップの無能を宣伝しているようなものだ。
 そのうち大きな人権問題として再評価されて日本がやり玉に挙げ、その間自国には矛先が向かないという仕組みになっていく可能性だったあるかもしれない。管理能力がないのではないということになれば、人を人とも思わないような扱いを敢えてしているということなのだから、当然大きな人権問題となるだろう。
 男女平等というなら、働き過ぎて死ぬ人の割合も同じぐらいになっているはずだ。実際にはどのような統計になっているのだろうか。
 しかし、休みの日が増えたために、かえって忙しくなる職種だってある。家に持ち帰る仕事が増えるだけという場合もある。制度をいじればいじるほど、改善しようと思えば思うほど、駄目になるものがある。だが、何かしないと評価されないので、改善という名の「いじり」が横行する。これは迷惑以外の何ものでもないことが多いのではないだろうか。トップダウンが大好きな組織においては特にそうだ。命令を出し、進捗状況を報告させ、新たな命令を出すという、駄目なタイプのPDACによって、状況は悪化していくのだ。
 特に休日のような全国民を対象とするようなものを、十把一絡げで変えてしまうと、不都合が一杯生じるのだ。これがもっと昔なら良かったかもしれないが、日々複雑化していく現代社会で、法によって一律に何かを変えてしまうと、泣く人がたくさん出るのだ。政治家は涙には目をつぶり、笑った人だけに目を向ける。それは政治家の資質に問題があるとも言えなくもないが、基本的にそういうものの見方をするのが人情だ。
 そして、泣かされた人々が変化を克服し、その不要な努力に慣れ、何とか対応できるような仕組みを育ててきたころに、また新しい担当者が、何も変えないと前任者と比べて無能だと思われるのが恐らく嫌なのだろう、またいじり始めるとしか思われないような仕事に着手する。これは意地悪な決めつけだが、実際とどれほど違っているだろうか。
 問題は山積しているはずだから、問題解決のために、新しい取り組みを次々に打ち出すことは当然だ。だが、それは当然ではあっても間違ったことだ。
 何から取り組むのか、どの程度のペースで取り組むのかということの分析が為されているかどうかが問題だ。下手をすると成果を上げやすいものに取り組むとか、得意分野を優先して着手するとか、人間関係の関係でやれと言われたものから着手するとか、そんなふうでは、幾ら有能であっても、幾ら成果を上げたとしても、一旦賞賛されこそすれ、最終的にはどうか疑問だ。
 為すべきタイミングでの取り組みではなかったり、他の仕事も含めた全体の中でのバランスがとれてなかったりすれば、本当は大きな迷惑をかけているかもしれないのだ。そもそも、旧担当者が手がけていたことが成し遂げられていたかどうかの確認、それが成し遂げられていなければ、手際よく解決してしまうことが求められるが、成し遂げられていなかったものを、手際よく解決することなど、よほど旧担当者が無能でない限りできないことだ。
 しかし、その「意欲的」な「仕事ぶり」は、その人やその部署の成績として評価されるから、ますます意欲が高まるだろう。だが、その度に振り回される人々がどの程度いて、どのようなマイナス効果を上げているかは、恐らく調査も報告もされない。トータルでどのような成果を上げたか、他の仕事への影響ということまで分析して評価しなければ、正当な評価がされたとは言いがたいと思うのだ。そうしたことのチェック、書類上チェックだけでなく、実際のチェックは誰によって為されるのだろうか。それが内部チェックなら、ほぼアウトだろう。対立部署によるものならば、やや信頼性が高くなるのだろうけれど。
 こうしたことが職場という小さな範囲、会社という小さな組織の中で起こっていることならば、他への影響も少なく、火がついたとしても範囲に対して目が多いから消火しやすい。
 ところが、国家レベルで影響を及ぼすことについては、相当の慎重審議が必要だ。断行して火がついたとき、灰になるまで人々が消耗したとしても、大抵は誰も気づかないのだ。新聞沙汰となっても、人の噂も七五日、担当者は静かにそれを待てばよいのだ。実行はしても効果を検証しない。たとえ検証したとしても、それを誰に示せば良いのか。担当者はもう別の仕事をしているのが落ちだ。
 ところで、男女平等とはどういうことだろう。同じ労働で同じ賃金を得ることだろうか。そして、平等でなかったらどういう処置をとるのか。それはやはり金銭による対応をするのだろうか。これは事務的には難しいことだ。そうなると、意識の問題だということにされて、意識改革をしましょうということで終了させられてしまいそうだ。この問題はどのようにして評価され、改革がここまで進められましたと述べることができるのだろうか。
 「子どもは女にしか産めない」というが、「子どもは男にしか産ませられない」のだ。その点については、そういうスタイルの平等としか言えそうにない。
 では、子育てはどうか。これは本当は家族で育てるのが正解なのだが、残念ながら、数十年前から核家族化が進み、それが原因で進行している諸問題があって難しい。近年は核家族も壊れ、膨大な数であろうシングルマザーの二人家族が、統計的的にはわからないが、かなり目立つほどに増加している。
 どうして地域が壊れ、そして家族が壊れ、そして夫婦が壊れ、シングルマザーが増えたかがわかっていないと、対症療法、それも金銭面だけというお粗末な方法で、お茶を濁すしかなくなり、夫婦関係の次に壊れていくのは何だろうと、心配しなくてはならなくなる。「いえ、相談窓口をつくりました。」というかもしれないが、それが十分に機能していないのは、現実を見ればわかるだろう。
 どう対応しているかが問題なのではなく、どう解決したかが問題なのだ。だが、アドバイスをするのが仕事で、解決するところまでは・・・・・・プライベートな問題には立ち入りませんという答えが返ってきそうだ。だから、何も解決していかないのだ。アドバイスで解決するようなことは、およそ自分で解決できるようなことだ。
 次に壊れるのは子供自身だ。その答えは少子化。どう壊れるかはこれからわかる。現実を見ていればわかる。見ていれば、見ているだけではいけないという気持になるだろう。だが、最終的に見なくてはならない人が、見ていない可能性が高い。文字の報告ではなく、数字の変化、グラフ、そうした資料だけから判断するという間違いをしでかす人は普通にたくさんいるだろう。客観的な調査によって得られた資料だからといって、資料だけを重視するという立場をとる人だ。
 現実こそが事実。その事実を見学程度にし、資料を重視するという本末転倒に気づかないタイプの人もいるものだ。完璧な資料というものはない。実質的な現状把握を試みる人は、用意された資料以外に、自ら必要だと思った資料をさらに要求するものだ。
 さて、少子化にもかかわらず、その少ない子どもにすら親が関われない状況となっている。大事な時期を母親が仕事で子供に関われないということのつけはあまりにも大きい。兄弟が多ければ、兄弟間の年齢差によって互いに育つ部分がある。それが、少子化に向けた努力によって、それも期待できない。
 少子化を促進させた張本人がどこかにいる。もうお亡くなりになっているかもしれないが、その人、またはその人が代表している集団の判断で、少子化を奨励した時期が確かにある。
 過去、少なくともテレビでは奨励されていた。こんな大問題を孕んだ発言を、肩書きを持たぬ単なる個人が公共の電波を使って主張するわけがない。「たくさん生んで粗雑に育てるのではなく、少なく生んで大事に育てる時代です。」という意味合いの主張やコメントを、それらしき立場の人々や教育評論家たちがどれだけテレビで発言したことか。今問題の少子化をだ。そして、近い将来致命的な大問題となる少子化をだ。テレビをあまり見なかった僕でも、いろいろな時間帯の番組で、何度か耳にしたのだから。これは駄目だろと子供ながらに思ったものだ。主張のある子供だったわけではなく、実は学校の授業で習ったばかりの将来の社会問題だったからだ。学校で習ったことや考えたことと、テレビで推奨していることがまるで逆だったからよく覚えている。
 実際に今よりもずっと困る将来になってから、テレビで推奨していたことが間違いだったということの証拠がやっと手に入る。今証拠を出してとか、その根拠を示してと言われても、手遅れになってからでないと証拠など出せるわけがない。
 「いろいろな家族のあり方があっていいんじゃありませんか。」「ほしくても子どもができない人のことを考えたことがあるんですか。」というような、最も議論しなくてはならない事の本質から外れた論調に誘導され、しかもそれにきちんと応じられなかったから、問題の核心に戻せなかったのだろう。情けないことに、世間の論調まで、そうなっていったように感じる。 
 当時のいわゆる教育評論家たちの、問題の核心に触れずに、いつも自分が考えていることを口にするだけの発言は、子供の僕にも違和感があった。言論は自由だが、的外れの言論は勘弁してほしい。テレビの力は、的外れでも主張を通すのが話術だというような誤解を、常識化してしまうようなところがある。
 もちろん、ある程度の責任を追及したとしても「世間の代弁をしただけです」という返事をもらうのが落ちだろう。発言による弊害の証拠など残らないからだ。だから、どうしようもないのだが、その手の発言をする人々は、どんな問題にも似たような姿勢で発言をする可能性があるのではないかと心配している。
 しかし、テレビ視聴時間が多くなった近年でも、さすがにそうした無責任な発言はテレビで耳にしなくなってきた。「視聴者の判断に任されていることです。」という姿勢も垣間見られるテレビ番組だが、その判断力が理想的であり、または標準的なものであるという、無理なことを前提とする苦しい姿勢でしかない。それがまかり通っているということはないか。全ての視聴者が理想的な判断力や、標準的な判断力を持っているわけではないのだ。
 そうした、責任の転嫁とも受け取られかねない姿勢による類似の発言の出現をチェックすることぐらいしか、今のところ視聴者にはできない。また、テレビ番組も今のところそのようにしか作ることができないともいえる。テロップでその旨を流すか、番組の終わりにお断りを入れること以外の手立てを思いつけないのだ。
 テレビドラマの最後に「これはフィクションです」というお断りを入れるのは、大人から見れば奇妙なお断りだが、幼い子供も視聴している可能性は高いからだ。でも、幼い子供にはフィクションという意味がわからない可能性も高い。それどころか字がまだ読めない場合もある。そして、番組終了後に示されるので、心構えもなく視聴している可能性が高い。
 さすがに、殺人シーンや残酷なシーンなどについては、番組開始前に示されることもあるが、その後で視聴する場合もかなりあるはずだ。その辺りの対応が手ぬるすぎ、そこにテレビ番組制作者の無責任さ、まさかとは思うが悪意などを疑わざるを得ない状態になっている。そして、その状況が当たり前になってしまい、誰も声を上げようとはしいない。
 声を上げたとしても、「表現の自由の侵害」という指摘によって問題をすり替えてくるだろう。そして、「表現の責任」についての言及はなされないか、言及されていたとしても、形だけのもので、行動として実行されるものではないはずだ。なぜなら、それは実行不可能だと思われるからだ。だから、「今後の課題として云々」と締め括られていって、体裁を整えるしかないのだろうと思う。
 同様のことが、ニュース番組や広報番組でなされていなかったか。それを否定できる証拠が一つでもあれば確認したいものだ。
 それにしても、何だったのだろうあの頃の日本、そしてテレビ番組の内容はともかく、立場ある人々、そして評論家たちの発言内容は。男女平等についても、そうした無責任な大人の発言が、テレビを通して頻繁に拡散された結果、幼かった視聴者である僕たちにも届けられたのではないかと心配してしまう。一種類だけのものの見方を、つまり怪しい感覚を植え付けられていた可能性を、かすかな記憶としておぼろげながら感じるのだ。そのようにはっきりしていないだけに、恐ろしいのだ。はっきりしていれば、大人になった自分の力で解釈できる可能性が残されているからだ。自分の常識、そして常識的な感覚自体が、過去の変な大人の変な常識の受け売りであったりする可能性を、うまく否定することができないのだから。
 少なくとも今のように幾種類かの意見が飛び交うようなスタイルで示されていたら、大人になってからの選択の余地もあったろうに。だが、本当は大人になった今でも、その余地の有無さえ自覚しにくい。そして、現在示されている考え方の選択肢も、それがどういう意図によって、どのような順番で示されているのかを判定しにくい。また、敢えて選択肢に挙げられることがなかったその他の選択肢の存在は、あらゆる問題の選択肢の数がおよそ同じであることから推測できるものの、その内容までには考えが及ばない。そうした危機感だけはあるから、もどかしいものをいつも感じる。
 さあ、自然に集まってくる情報以外の情報を、どのように集めようか。それを自分がどのように考えているのかを、どのようにして自己チェックしようか。夢なら夢の中で自分のほっぺたを抓ってみるという漫画のような方法もあるのだが。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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