恐怖シリーズ232「法医のL氏」⑪

 金や物、そして地位や名誉などが絡む宗教は、所詮はたいしたことのない宗教だと、近所の大人がよくぼやいていたのを、幼いころから聞いていた影響も少なからずあった。だが、そうしたものと無関係でいられる宗教など、あるはずはないと思うようにもなっていった。
 だが、L氏が宗教化しようと試みるものは、最初から、そして最終的にも、金や物、地位や名誉とは全く無縁のものと思われた。これは彼が何の抵抗もなく、宗教化という方法を発想した一つの理由でもあった。
 広報費、接待費、消耗品費、印刷費、工事費、修理費、人件費、数え切れない必要な金銭、それを確保するための必要な労働力。結果として宗教組織を維持する上での費用を賄うために、組織内の階級を利用した集金システムを活用せざるを得なくなる。当然のことだ。だから、批判される筋合いのものではない。
 しかし、だからこそだ。暗黙の活動、活動のための活動、そうしたものが錆のように発生していく。その錆を落とすどころか、錆びつき具合を当然のこととして黙認し続け、その結果生じた不都合を、「背に腹は代えられません。今はこうしなければ仕方ないでしょう。」という、理想から外れた本末転倒の発想で処理していると、それが事務的な習慣となり、そうした性格の組織となっていくだろう。
 あるいは、そのための副業に走ることもあろう。うまく関連づけて宗教活動として解釈し、邁進する。そこが堕落の一歩だというわけだ。宗教のため、信仰生活の充実のためと頑張るほどに、道から外れていくのだ。
 どんなに徳の高い人が教祖となっても、その事務方、そして二代目、三代目となれば、世襲制にしろ、選挙制や推薦制にしろ、金や権利、権威、権力に関する件での妙な動きが生じやすい。宗教団体には、第三者組織の監査などが入りづらいことも、それらを助長させていく一因となってはいないか。
 もちろん、そうした問題とは無関係の宗教団体もあろうが、どのように世代を乗り越えて宗教団体として存続させていくかを、具体的に規定したものを敢えて公に謳っている宗教団体をを、まだ彼は知らない。もし、問い合わせたとしても、「私たちの宗教の教えや歴史、宗教活動と直接関わらない事柄、団体内部の事務的なことを公にして申し上げる必要は無いのではないでしょうか。一般の会社でもそうではありませんか。」というお返事をくださることであろう。それは別におかしなことではない。
 だが、彼はいわゆる「宗教」を興そうとはしながらも、従来のものとは違いますよという側面をいくつか持たせることで、今後の宗教界に一石を投じてみたいという気持も持ってい。
 その結果、どのような波紋が生じるかはわからない。だが、誰かがやらねばならないだろう。個人的な行動で終わってしまえば、責任を取り切れないであろう。一大事業であれば当然そうなりがちだ。だから、しっかりした団体を持っていない限り、敢えてリスクの高いパイオニアになろうとは思わないだろう。
 だが、真の宗教団体であれば、心ある人たちが世代を超えて行動を継続し、その一つ一つの行動について、一つ一つの責任をとっていける。。責任の割り勘ならぬ、責任の適切な役割分担だ。むしろ、それが人の歴史への理想的な関わり方ではないだろうか。時代を変えるには、時代をまたいで活動することのできる団体のスタイルをとらねばならない。個人の活動だけでは、時代に飲み込まれてしまうだけだ。組織化、継続的な活動、時代に合わせた組織の進化。これが、どうしても必要な展開となる。
 このように、長期的な取り組みは、一人の寿命では賄いきれないことを想定して為されなくてはならない。だから、最初の一人の動きだけを切り取って批判するのは、間違った行為だ。全体の流れ、長期的な取り組み自体の成果から判断したところの「最初の一人」として、つまり、全体の一部として批評しなければ、正しく批判することができないはずだからだ。彼はそうした批評を受けるにふさわしい人間かどうか、そしてその批評を受けるにふさわしい活動であるかどうか。こうしたことを問われるのだから、それなりの覚悟が必要だ。
 もちろん、生きている間にも、その都度の批評を受けなければならない。まだ成し遂げられてない将来のことを述べても、言い訳となるだけだから、口をつぐんでおき、生きている自分への批判や、当面なされている活動への批判については、それを甘んじて受けなくてはならない。
 誰かが勇気を持って、世間様から批判されるほどのことをしなくては、世の中は何も改善しないだろう。彼は世の中のために尽くしたいという切なる願望が自分の中にあることを、まだ自覚していない。当時の彼は「最初の一人」にありがちな、まだぼんやりとした曖昧な枠組みを持っていただけであった。だから、宗教界というものの「排他的統一」と「宗教界自体の進化」というほどのキーワードのイメージを、不明瞭に抱いていただけの人であった。本業は個人的には法医と呼ばれたい監察医なのだ。
 団体を存続させていくにはどうすればよいのか。世襲制、選挙制、推薦制、どれをとっても弊害が生じてくる。制度である以上、制度自体が生み出す弊害を防ぐことはできない。ラマ教のような転生活仏制、つまり生まれ変わり制による宗教の存続は、そうした弊害に懲りて後に、苦肉の策として編み出されたものかもしれない。
 もちろん、この制度にしても、制度外での裏表の営みがありそうな感じはする。そうでなければ、出現のタイミングの問題を解消しにくいからだ。これは情報不足でわからないが、裏は当然裏であるがゆえに知り得ないものとは思う。ただ、想像するのみだ。
 ここまで思いを巡らせただけでも、実に宗教団体とは摩訶不思議なものだと、彼は頭を抱えるのだった。自分が立ち上げた宗教が、一代限りのものというのでは、それはかなり無責任なことだと思ったからだ。かつて客観視していたころは、宗教に対して首をかしげるばかりであった自分が、いざ関わろうとすると、この存続の方法一つでも頭を抱えることになる。
 こうした、自分の内面で起こっている事実は、彼が世の中と思っていたものの総体が、実は自分が知り得たものを、自分が比較的矛盾なく、つまり自分が理解しやすいような形で自分の中に構築しただけの、バーチャルなものだということを、さらに思い知る材料となっていった。
 また、かしげる時は首と表現し、抱える時は頭と表現する。首も頭も同じ意味だ。こうした言葉がもつ使用上の留意点についても、宗教を表現するときには、十分に気をつけなくてはならないことになるだろうと思うのだった。不適切な表現をすれば、解釈の幅ができ、その解釈に沿った行動に食い違いが出てくる。これは良きにつけ悪しきにつけ、存続という面に影響を及ぼすことになろう。
 行動の食い違いが内部の対立を生み、外からの批判を受ける材料となる。だが、そこに淘汰の力がはたらき、残ったものが、その時代に即したものとして光が当たる。対立するものを根絶するのではなく、力を弱めて保存しておけば、また時代の流れが変わったときに、あたらな光をそこに当てることで、全体としては存続可能となる。このような上手な食い違いが内部に生じるように仕組んだ、容易に観察できる部分が、根幹の部分と合理的に接続している玉虫色の宗教ならば、存続の可能性が高まり、長期にわたって存続している間に、必要なものを手に入れ、必要な考えを付け加え、必要な人材を集めるチャンスが高まる。つまり、その宗教の目的を達成させることができるのではないかと、L氏は判断するに至った。
 言葉と言えば、宗教は何語で表現するのが最も適当なのか。そんなことさえ頭に思い浮かんでくるのだ。誤解を生まぬためには、そして否定されないためには、数式で表現したほうがよいのだろうか。いや、数式で表現しないほうが好ましい部分もまだ人間には多く、その部分こそを人間的な部分だと人間自身が受けとめているのが、今の人間であろう。
 では、図形で表現すればよいのだろうか。これは、図形だけで表現されうるものがどれだけあるかという問題と、図形が直感的な理解を促進する方法としてどこまで有効であるかという問題を抱えている。これは双方の長所を生かす方向で、言語と併用すれば効果的だろう。
 これは教科書を作るようなことかもしれないと彼は思った。宗教関係者は大変なのだな。そのようにしみじみと思う日々をしばらく過ごすのだった。そこで、高等学校までの教科書を取り寄せ、どのように構成されているかを分析することにした。
 随分と遠回りをするようだが、後で無駄になろうとも、考えだけは広く進めておこうと思うのだった。可能な限り触れられるものに触れ、情報やら知識やら工夫やらを吸収し、どのようにでも利用できるように整理しておけばよいだけのことだからだ。
 整理する材料すらないのでは、話にならない。無駄になったら無駄になったで、保存しておけばよい。無駄でなくなる日を待てばよいだけだ。
 今回の企画の実行者は、自分ではなくてもかまわないのだ。自分の死後でもよい。誰かが共感し、納得し、実行可能な体力と知力と財力があれば、粛々と実行されるだけのことだ。そして、その形式は宗教でなくてもよい。宗教やら政治やら、そうした方法はどうでもよいのだ。
 必ず最後には死ぬようにできているのが生命体なのだから、個人の生死なども問題ではない。それどころか、自然の摂理に合わなければ、種の存続すら彼にとってはどうでもよいのだ。
 ただし、自分の生命も、人類の存続も彼は全力で守ろうと努力する。個人的な小さな範囲ではあるが可能な範囲で、そして微々たる個人の力ではあるが、己の能力のおよぶ範囲の中でだ。それは彼が生き物で、人間だからだ。その結果、何がどうなろうと別に構わないというだけのことだ。立場を全うすることにはこだわるが、その結果には全く拘らない。L氏の大きな特徴だ。
 結果はどうでもよいという諦めをつけているというだけのことだ。だから、自分に関わる結果だけに目を向けて見て見ぬふりをしたり、多少ずるいことをしたり、法律違反ではないからと常軌を逸したりする人を見るにつけ、話に聞くにつけ、思うことがあった。死にものぐるいで頭を働かせ、あくせくと手を回し、ある者は巨万の富を得、ある者は得がたき愛情を得、あるいはそうして得たものを失い、それで幸福になったと思ったり、不幸になったと思ったりして一生を過ごしてよいものかと。幸不幸という不安定な価値でものごとを判断するのも随分と勇気のいることだと感心もする。かえって尊敬の念すら抱くことがあった。とても自分にはできそうにないからだ。
 ところで、実際のところどうしよう。どの程度の規模を想定して宗教の設計をしていけばよいのだろう。夜中、自分が書斎としている小さな空間で、仕事疲れの体を癒やしながら、再び思いを巡らし始めた。通常なら、家屋の設計変更を重ねる過程で、このような小部屋は消えていくものだが、最初なかったものが空間として残り、それが小さな小部屋、書斎となった。電子ファイル化してもよい書籍は、ぜんぶ電子ファイルにしてしまえばよいから、小さくても構わないのだ。そこにコンピュータを必要に応じた数だけ導入し、各種プリンター、各種スキャナーを配置していっても、うまくラックを組めば何とかなるのだ。
 彼はまるで小さな部屋やその部屋の中の構成をどのようにするかを考えるのと同じような感覚で、宗教化の問題も考えていた可能性がある。それは趣味ではないが、必要なことだ。しかし、その必要なことを自分の趣味に合ったものとして成立させるところに、一種の楽しさを見いだしてもいたのではなかろうか。
 このように一人だけで物事を考えることが、そして同時に人並みならぬ行動力をもっていることが、場合によってはいかに危険なことであるかを、彼はまだ気づいていなかった。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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