恐怖シリーズ235「法医のL氏」⑬

 歴史の流れの中、そのどこかで、誰かが、何らかの理由で選択した宗教。それが、子々孫々にまで影響を与え、その世界観に縛りを加えていくということは、良いことなのかどうか、というう疑問は昔と変わらず、現在の彼の前にも立ちはだかっていた。
 外国人の知り合いの中には、プロテスタントとカトリックの両方のキリスト教徒がいるのだが、時として彼にはどうでもよいことで彼らは対立することがあった。同じキリスト教なのに、教えの違いで反目するとは、お互いの幸福を担保するはずの宗教であるのに、その根本のところが崩れているではないかと内心思うものの、宗教というものの本質について、深く考えるには、彼らの主張を吟味することも重要であろうと思うのだった。
 そもそも、同じキリスト教徒でありながらも、反目し合うようでは、それは不幸の元を作ることになる。なぜなら、近くに住んでいるからだ。だが、近くに住んでいればこそ、仲良くなるきっかけをつかめることもあるはずだ。お互い遠く離れていれば、つまり、すみ分けされていれば、対立は防げるだろうが、永遠に理解し合えず、協働しなくてはならぬときなどは、うまくいかぬことも出てくるだろう。
 どちらにしても敵がいることが多くなるから、それは不幸の元になりそうだ。良かれ悪しかれ、さまざまな分野のグローバル化が進んでいる流れの中で、マイナスの効果を生み出す側にキリスト教がおかれているようなら、キリスト様も不本意であろう。現代のような世の中にあったキリスト教を考え出さないと、まずいことも出てくるのではないか。思うにプロテスタントは改革という十字架を背負っている。
 だとすれば、今よりもより多様化したプロテスタントのあり方を編み出すために、聖書を読み直す必要があるのかもしれない。そうすれば、新しい社会が生んだ、新しい状況の中で、新しい苦悩も背負い込んだ信者を救うことになるだろうと思うのだった。改革の十字架を背負っているという自負があるなら、よりよい世の中で、よりよい生き方を一人一人の信者がしていけるように、教会が導くべきであろうとも思うのであった。しかし、どうもそうしたものでもないようだった。
 キリスト教については、ほとんど理解できていないL氏を誰も責めることはできないだろう。そもそも、彼の周りにキリスト教徒が少なすぎるので、情報不足だからだ。学校で習った程度で、本当のところはわからないのだ。どうにも情報不足であるのに、正しく判断するのは不可能だ。だが、情報不足である分だけ、理解しようとする態度がL氏にはある。その態度は、彼ら外国人の知り合いには到底期待することのできないものであった。この時点で、キリスト様に判断を請うとすれば、この三者の中で自分に微笑みをかけてくださるのではないかと、L氏自身が思うほどのものであった。
 一度、どうしてあなたはカトリックなのか、どうしてあなたはプロテスタントなのかということを、それぞれに聞いてみたいとも思っていた。彼らはそれぞれ、カトリックの家系、プロテスタントの家系だと知っていたからだ。これが、逆ならば、つまりカトリックの家系なのに、プロテスタント、プロテスタントの家系なのにカトリックということならば、やはりその理由を聞いて理解したいものだと思っていた。理解し合って受け入れ、広い心で仲良く生きていくということが、人間にとっては最も大事なことだと、親から教わってきた。なるほど、彼らもそのように親からの教えに従っているだけなのではないのかという疑念をさらに強く抱くのだった。
 すると、ポイントは家系ということになる。豊かな財産を持つ家系は子供も多くなり、宗教的にも優勢に立つだろう。改革者であるプロテスタントは、土地に応じて、時代に応じて、聖書の研究に応じて、さまざまな姿を持つようになるに違いない。すると、一つ一つは小規模な団体となってしまい、信者の数的に優位に立てなくなるのではないか。プロテスタントして足並みを揃えるためには、カトリックという共通の敵を持つことが必要なのだろうか。あるいは、その時だけ足並みを揃えようとするのか。無宗教、情報不足のL氏にとっては疑問がたくさんあった。
 既成の宗教の持つ宿命のようなものは、どういうタイミングで生まれたのだろう。その宿命は、その宗教にとってどのような価値を持つものなのか。その宿命は単に長い歴史の中で仕方なく少しずつ背負ってきたものなのか。あるいは、最初から発想の中に含まれていたものに関係しているものなのか。どのような客観的資料によって、どの宗教を信じる人々が幸福であるかどうかを判断することができるのだろうか。
 宗教としてより正当性の高いものであっても、今生きている信者の幸福度が低ければ、宗教の役割を果たしていないのではないか。また、その時に確かめられるべきは、不幸な信者を切り捨てたりしていないかどうかだ。そして、不幸の原因を信心の足りなさや異教徒や世の中の移り変わりのせいにしたりしていないかどうかだ。さらに、幸福のハードルを必要以上に低くしていないかどうかだ。そして、幸不幸を信者一人一人の責任として問題をすり替えていないかどうかだ。
 このようにややこしいのならば、従来の発想を引きずらない新しい宗教を、いや、もはや宗教という名前を使わないものを創案したほうが、人類のためかもしれないとも思った。しかし、それには時期の熟すのを待たねばならない。恐らく、それは別の時代の到来を待たねばならないほど先の未来であるように感じた。既存の宗教を否定するにはあまりに歴史がなく、既存の宗教の上に立つには、肝腎の哲学がまとまっていないからだ。そもそも、彼自身の現在の立場は、一般社会的なものであって、宗教的なものではない。いくら死体に関わる職業だとは言え、職種が違うのだ。本来、職種は関係ないのだが、宗祖となるのであれば、生業を捨てる覚悟がいることぐらいは、彼も思っていた。 
 やはり、原点に戻ろう。まず調べよう。どの宗教の信者が幸福なのか。だが、そのようなアンケートをとる術はない。自殺者の数はどうだろう。最も自殺率の低い宗教に注目したらよいかもしれない。宗教別の資料はないかもしれないが、国教という見方なら統計があるかもしれない。特にカトリックとプロテスタント別の自殺率の統計はないだろうか。あるいは一神教と多神教別の自殺率の統計はないだろうか。自殺の禁止を謳っているかどうかの、「宗教別の自殺率の統計」はないだろうか。統計があれば良心的、なければ統計を取ることに自信が無いのかもしれない。
 依るべきものが自分である場合、自立した人間であると言えよう。しかし、精神力が弱るとき、そのシステムは機能せず、迷える存在となる。そこから這い上がれる者はよいが、誰もがいつでもできるわけではない。すると、やはり神仏の力、つまり言葉で救われるか、それらに仕える立場の人間に頼って救われる必要が出てくる。この三つの道のどれかを選択し、他を認めないという頑な心ではなく、自分の状況に応じてその三つの道を自在にシフトさせる知恵をもって生きていくことを、自由な生き方とするしかない。人は弱い。だから、鍛えて強くならねばならない。だが、途中で弱ることもある。そうした生き物だからだ。
 ところで、自殺率は普通なら無宗教の日本人であるはずだ。だが、果たしてどうであろう。無宗教であることの強みが、現代社会では強みになる場合もあるのではないか。特に宗教的な対決が鮮明になっている時には。その現宗教が進化しない限りは、その可能性がある。逆に、なまじい自分の信仰心の厚さによって救われている場合には、何かのきっかけで、自分の信仰に疑問を持ちたり、宗教的罪を自覚した場合には、それを背負いきれずに自殺に至るかもしれない。
 燃えた死体。潰れた死体。ちぎれた死体。腐った死体。彼らがどのような宗教の信者だったのかは大抵わからない。彼は、その死体にもの申していただくため、犯人逮捕につながる証拠や状況などの事実を日々探る。どのような生活をしていたか、どのような職業であるか、自殺か他殺か、死因は何か。思うのだが、宗教心を得るに足らぬ脳の働きの持ち主や、まだ言葉を理解しない幼児は、無宗教のはずだ。最初から信心はない。神を認知してもいない。どういう存在なのだろう。
 そうした宗教心を持ち得ない者やどの宗教団体に所属しているか不明の者たちの死体に向かって、彼は手を合わせる。死んでしまっては皆同じ。肉だ、骨だ、内蔵だ、そして脳だ。生き返ることもなければ、それ以上死ぬこともない。日本では焼却されるが、他の国ではどうなのだろう。誰かわからぬ死体の山をどうしているのだろう。火葬を認めない宗教もあるだろう。どこにどのように埋めるのだろう。それはおよそ一人分であっても、本当に一人分の肉とは限らないのだ。
 どうしても、まっとうな一人分として合成しなくては。壊れたところは捨てるしかない。生きていたところを、まっとうなところを寄せ集め、理想体にしなければ。それこそが、彼らの迷える魂が宿る場所だ。他に宿るところはないではないか。魂は昇天すると言うが、昇天するとはどこへ行くことなのか。どんどん昇天したら、そこに魂がどんどん集まるのであろうか。何のために集まるのだろうか。それらは集まったままなのだろうか。いつか一つにまとまることはあるのだろうか。また肉体に宿るべく順番を待つものなのか。そもそも、魂なるものを何が制御しているのか。
 そう考えると、自分がパーツを集めて理想的な死体を作ったとしても、魂が宿るものかどうかがわからなくなってきた。魂というものが宿るということはどういうことか。実際に生活できる体だからこそ宿る魂なのではないか。すると、魂ははたらきであって、宿るものではないのだとしたほうが、正しそうではないか。なぜなら完全な姿の死体に仕立て上げても、決して生活する生体にはならないからだ。
 すると、魂の問題は、死者の問題ではなく、生きている者の認識の問題ではないのかと思われてきた。死体に魂を宿らせるということが既に間違っているのだ。魂は昇天もせず、彷徨うこともなく、単にはたらきがなくなり、つまり消滅したのだ。新しく子供が生まれれば、そこに魂のはたらきが芽生える。そうした生物の肉体や精神のつながりの問題が魂の問題であって、魂が昇天するとか、魂が抜けるとかは、生きている者が便宜的に何かを説明する時に用いただけの言葉だ。どうしてもL氏にはそう思われるのだった。理由はない。
 まっとうな一人分として合成すれば、遺族はある程度救われるだろう。「この部分が息子さんです」と言える人体マップは必要だろう。何なら、理想体になるまで待って、一度に火葬してもよい。結果として合同葬となる。こうなると、普通の葬儀と二度の葬儀になるが、一度目の葬儀には、しっかりした死体がない。しかし、二度目は理想体としての死体が存在する。どれだけのご遺族が賛同しただけるかわからない。だから、自由参加がよいだろう。もちろん、合同葬にするのは、ご遺族の希望によるから、合成する希望を聞いたとき、同時に葬儀の希望も聞いておかねば、不都合が起こることになる。
 死体処理はこれでよいかもしれないが、法律が変わらない以上は、秘密裡に行わねばならぬ。宗教にこだわらず、死体処理の方法という問題にしておけば、あまり面倒はなさそうだ。それに対してどのように考えてもらおうが、どのように救われようが、ご遺族の勝手ではないか。自分とご遺族の両方が満足すればよいことではないかとも、思うようになってきた。こうしたところにも、L氏の考え方の逸脱が見られる。
 ここまで、自分の考えが混迷するとは思ってもいなかったL氏は、結局のところ何もしないという安易な選択肢から、宗教を興すというハードルの高い選択肢までを含めて、今後じっくりと判断していくことになるのであろうと悟った。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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