恐怖シリーズ236「PDCAが墓石行政の悲劇を生むのか」

 短期t的なサイクルで到来する悲劇に対しては、PDCAサイクル対応でも改善されていくかもしれない。「C」「A」の回数が短期間のうちに多くなるからだ。しかし、長期的なサイクルで到来する悲劇に対しては、同様の理由で「C」「A]の回数が、担当者の任期や人の寿命に対して少ないため、対応しきれなくなる。つまり、死亡者を出すような重大事故に至る途中の段階で事前回避するための方法に気づいたり、それを改善したりする研究が足りなくなるのだ。
 結果として墓石行政と言われる、お粗末な後始末に追われる。最悪の場合、たいした成果を上げることもないため、手をつけられずに放置されることになる。このようになっているとしか見えないのは、視野が狭いために、情報不足になりがちな僕だけだろうか。最後の望みはマスコミなのだが、事前に阻止してしまうと、ニュースにもならないからというわけでもないだろうが、あるいは圧力がかかって報道が制限されているわけでもないだろうが、大事なことを継続的に報道するという姿勢が今のマスコミには欠けている。マスコミのそうした姿勢によって制作された番組にによって、自然と視聴者の関心も寸断され、ものの見方は狭くなり、考え方も浅薄になっていく。愚民政策など敢えて必要としないのが現状のようだ。
 酷い場合には、未対応であったため、もしくは旧態依然とした不十分な対応犠牲者が死者として何人も出なければ、数字に加算され「て負の実績」扱いされないということはないだろうか。また、「負の実績」が数字として示されたとしても、何らかの理由を探しては、対応しようとはしないということはないだろうか。こうしたことは何と命名してよいものやら、言葉がない。敢えて言えば「職務怠慢」なのだろうが、単なる「職務怠慢」ではない。「悪質な」とか、「無知による」とか、何か言葉を加えないとうまく表現できない。
 こうしたことに対する言葉を早めに作らないと、被害者以外の人々、あるいはこれから被害者になりそうな人々に訴える力とならない。「過労死」などのように、国際語になるようにしなくては、日本の場合は独自で対応することがほぼないからだ。もし、これが、「仕方ない。」という「諦め癖」をつけさせられてしまっているためという理由だったとすると、これほど悲しいことはない。何しろ、「交通事故に遭ったとでも考えて、諦めるしかない。」という、恐ろしい「諦め方」がある国だから。
 もっとも、行政も「前例がない」という決まり文句を、当たり前のように口にしてしまうのは、さすがに恥ずかしい世の中になったという認識を持っているとは思いたい。昔、「すぐやる課」というものが設置されたことがある。随分と自虐的なネーミングだが、今はどうなっているのだろうか。どの部署も「すぐやる」ので、「すぐやる課」は廃止されたということになっていてほしい。
 しかし、すぐ対応したとしても、「検討中なので、今は動けないというのが実情です。」とか、「研究の結果がまだ評価されていないので。」というような理由で、中途半端な対応、つまり「取り敢えず受け付けて、お話ししました。」という記録をとっておくための対応では、形だけの対応と言われても仕方ないだろう。
 あるいは、推進すると宣言しながらも、推進のためのプランを立ててないような、宣言のための宣言をするという対応でも、形だけの対応と言われても仕方ないだろう。それはそれで一歩進んだという解釈をして、成果の一つとされても困るのだ。
 仮に実行されても、既に対応している周辺地区のレベルでの対応、つまり既に時代遅れの古いレベルに合わせてしまうような、そうした対応をとって、「きちんと対応しました。他地区と比べて遜色ないものと自負しております。」と胸を張られるようでも困るのだ。
 対応するのは当然のことで、それが事前の対応であるか、事後に請求されてからの対応であるか、将来を見据えた十分な対応であるか、そうしたことが問われているという自覚がどれだけあるのかということが問題なのだ。
 それでも、「予算の総額は決まっていますので、動くためには何か別のものを削減しなければなりませんので。」といような愚痴のような言い訳で、逆に理解を求めてくるような姿勢であるよりかは、幾分かましであろう。
 それにしても、PDCAの適用範囲を間違うと、悲劇が起こるという発想が、行政にはあるのだろうか。そもそも、「現状からのPDCA」をいつまでもやっていては、結局は多忙化を進め、その結果、ますますさまざまな対応に支障を来すということも、場合によってはあるということを、どれだけ認識しているのだろうか。
 何よりも、PDCAサイクル自体にこだわるあまり、また、その順番にこだわるあまり、第一に着手すべきことに着手できないでいるのではないか。「D」からスタートさせるのは効率が悪いので、せめて「C」からのスタートをするサイクルにすれば、まだましになるかもしれない。
 そもそも、この4サイクルエンジンのような律儀な方法では、間尺に合わないスピードで世の中は変化しているということに、気づかなくては話にならない。もっとも、そうではないペースで事が進んでいく空間もあるから、一概には言えない。だが、その空間が、そうではないペースで事が進んでいく空間と密接につながっている場合には、悲劇しか生まない。そして、それが当たり前の悲劇になってしまうことが、真の悲劇なのだと思う。
 一方、個人の生死には関わらないけれども、社会の生死に関わるような大問題がある。大勢の命がなくなって社会の大影響を及ぼす自然大災害は一説によると約60年周期、人の意識や心に関わって社会に大影響を及ぼす教育の問題は一説によると約25年周期、大規模なものは長期的なサイクルで危機化する問題だということだ。
 いろいろなポストに数年間、腰掛け的に人が入れ替わり立ち替わり、関連文書は化石化して発掘されないか、死蔵されるような、そうした昔のシステムをとっている限り、全ての人が犠牲者になり得る。ただ、その犠牲者意識を軽減するために、いろいろな仕掛けがあるので、それに身を委ねきれば、安心し、穏やかに暮らせるかもしれない。それは、一種の心の救済だ。だが、救われればよいというものでもない。現実は放置していればいるほど、その分だけ深刻化しているからだ。だから、心の救済は、「先延ばし」の現象を生み、いっそう深く深刻化する原因にもなりかねない要素を含んでいると考えた方がよいだろう。
 こうしたことは、人の生死がかかっているのもかかわらず、あるいは社会の将来が危ぶまれることであるにもかかわらず、ちょっとやそっとでは解決しないだけに恐ろしい。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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