恐怖シリーズ237「法医のL氏」⑭

 「別の宗教に変わると罰が当たる。」「信心が足りなかったために、罰が当たり、不幸になる。」とも聞いて育ったL氏。だが、具体的にどのような理由で、どのような罰が当たるのだろう。恐らく、不幸になるか死ぬかのどちらかに違いない。脅しではないか。脅さねば信心が得られぬとは邪教に違いない。そう思ったものだ。だが、もし、それが邪教でなかったとしても、そして罰が当たるということが本当であったとしても、どのみち生物は死ぬのだから、最初から罰が当たっているとか、信心にかかわらず不幸になったり死んだりするのだから、信心の度合いなどご自由にというような宗教も探せばあるかもしれない。もし、あれば、そうした宗教のほうが信じるに値するような気もした。
 見方を変えれば、罰が当たって死んでしまうというようなことがあれば、それは自然淘汰というものだ。罰当たりは現世には次第に存在しなくなる傾向をたどるはずだ。仮にそうなっていかないようならば、つまり、世の中が乱れに乱れていくようならば、その宗教のいうことや信心の対象を信じることは到底できなくなる。罰が当たって制裁されるということは、理にかなったことだから実現して然るべきだ。それができないということは、それを唱える者、唱えられているもの、それを奉る者たち等々、それらのどれもを信じるわけにはいかない。
 信じるに値する宗教ばかりであるならば、自然と信者は増えるばかりでなく、罰によって生きている人は信心が深いものばかりとなり、理想的な世界が出現することになる。それをいつまでも実現できない宗教とは一体何なのだろう。まだ真の宗教が生まれる前の時代を生きているのだろうか。それとも、どれだけ先の未来に実現できると説いているのだろう。従来のこうした宗教を参考にするにあたって、L氏は今ある宗教自体への懐疑心をさらに募らせていくのだった。怪しすぎるのだ。自分は宗教という選択肢を外した方がよいのかもしれないと、時折はそう思う。しかし、氏に関わる法医の彼は、最も死に関係している宗教を対象から外しがたいものとして見ざるを得ない。そこにジレンマを感じるのだった。
 だが、「信じるものは救われる。」という言葉が、いろいろな宗教にある。これは、死んでしまいなさいということではなく、入信すれば救われるから、死なないために、どうかこの宗教を信じてください、あるいは信じなさい、という救いの手をさしのべる態度の表明だ。これが、特徴だ。救われない者たちの弱みを利用して集団の人員数を増やす手口だと考えられないこともないが、大方は仲間を増やしたいという良心から、また純粋な信心からの言葉だろう。ただ、穢れなき末端の信者、あるいは真に穢れなき上層部の信者に特徴的なことだろうと推測された。
 だが、信心の力で火事が鎮火したとか、怪我や病気が治ったとか、そうした奇跡を集会等で開いたとしても、誰も本当には信じてはいないだろう。実験してみればすぐにわかることだからだ。仮に奇跡が事実であったとしても、それは奇跡でしかなく、日常的な出来事ではないのだ。しかし、そうしたものが日常的なものでない以上、救われるということにはならない。期待値を計算すべきなのだ。そして、同時にそれは救う力があるとは言えない。そうしたものが宗教であってよいのか。
 「いや、心が救われればよいのです。」という声も聞く。だが、心が救われなくても、まず救われたい状況がある。救われたい状況が救われたら、真の心の救済があるのだ。それなしの心の救済は、その価値を否定はしないが、真の救済といえるのであろうかという疑問を拭い去れない。心の救済だけであったら、宗教に依らずとも日常的に行われている。その日常的な心の救済が機能しなくなったら、それを改善すべきであって、宗教に頼るべきではなかろう。宗教も、日常的な心の救済が再機能するようなやり方で、救済をするのが本筋だろう。仮の目的を達するのは悪くない。それを真の目的とみなすレベルの時代があってもよい。だが、いつまでもそうであってはならない。偽物が定着してしまったら、偽物が本物になってしまう。
 この星に一種類の宗教だけが真の宗教だという考え方がある。それ以外は邪教であって偽物だということになる。これは正しそうな考え方だ。随分と邪教を創り上げたものだ。結果として、邪教になっているものもあれば、最初からじゃ今日のものもありそうだ。一歩間違えば、彼の起こそうとしている宗教も邪教の仲間入りになってしまう。だが、必要な邪教と、排除すべき邪教という区別をする必要があるのかもしれない。
 この星にいくつかの宗教があるのは当然のことだという考え方がある。どれも必要に応じて生まれたものだということになる。これも正しそうな考え方だ。随分と寛容な宗教の取り扱いだ。結果として、人々はどの宗教を信じるかという選択肢を迫られることになる。あるいは、生まれた土地柄、家系によって、選択肢を与えられないこともある。ほとんどの場合がこのケースだろう。その土地、家系の必要に応じて予め選択されていた宗教と同じ宗教を信じることは、その土地、その家系から離れて暮らさない限りは合理的な選択、いや自然の成り行きというものだろう。
 「なぜ、その宗教を信じているのですか。」「はい、そうした環境で育ったからです。」こうした問答が正しいことになる。だが、彼は新しい宗教を興そうとしている。つまり、新しい環境や、新しい状況に対応するものでなくてはならないということを意味していた。その新しい環境や新しい状況というものは何か。それは、変死体の大量発生以外には考えられない。自殺なのか他殺なのか。病死なのか病死させられたのか。微妙な死体が群れをなしているのだ。
 確かに死にたい者はたくさんいる。世界中で年間100万人は自殺しているようだ。そのなかには、自殺に見せかけた殺人もあろうけれど、その実態はわからない。この国だけでも年間3万人は自殺している。
 世界で年間100万人の自殺者が、既に宗教の敗北を示している。それは宗教の敗北ではなく、個人の敗北だという宗教家はいるだろうか。そうした個人に見向きもされなかった宗教に自分が関与していることが恥ずかしくて発言できないか、そうした個人を信者として受け入れながら救えなかったことが恥ずかしくて発言できないか、あるいは死者に対する経緯の気持から発言しないか、そのどちらかだろう。
 とにもかくにも、宗教で救えない命が、たった十年で1000万人、100年で、1億人だ。この100年間、いったい宗教は何をしてきたのかという発言があってもおかしくはないだろう。これが、宗教に対する彼の不信感の最たる理由だ。だから何とかしたいのだという彼の気持は強くなる一方だった。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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