変な疑問165「パンダ宮司は、宮司か禰宜か」

 朝のテレビ番組でパンダの冠り物をつけた白い狩衣姿の神主さんが紹介されていた。熱中症にならねばよいが。
 姿から神主さんとはわかるものの、宮司さんであるか禰宜さんであるかは聞かないとわからない。だが、自己紹介で「禰宜です」と宣言された。発言の字幕にも大きく「禰宜」と書かれていた。それにもかかわらず、スタジオでは「宮司さん」と言っていたり、「神主さん」と言っていたりと、全く統一感されていないばかりか、「禰宜」という言葉を使うこともなく会話が続けられていったように思う。どうしてだろう。ネットニュースでも「パンダ宮司」とされているが、本人は「禰宜」と明言しているのだ。
 ここで「神主、宮司、禰宜」の混同がさらに広まったと感じたが、もしかすると、敢えてそのようにばらばらな言い方をしてみせたのではないか、と良心的に解釈できなくもない。
 たとえば、「僕たちが混同しているように、皆さんも混同していませんか。一つこれを機会に調べて使い分けることをおすすめします。言葉を正しく使い分けることが、うるわしいコミュニケーションを成り立たせる最低の条件ではないでしょうか。」と暗に言ってみせたという解釈だ。暗に言わず、直接的なメッセージとして放送すると、番組に対してマイナスイメージをもたれるおそれが今の日本の風潮としてあるのではないか、と放送局が理解した結果、禰宜さんによる「禰宜発言」、それを受けたスタジオの数名のやりとりの中での「宮司扱い」「神主扱い」等々を短時間のうちにちりばめて見せ、暗に込めた提案を、視聴者に自由に酌み取ってもらうスタイルをとった。こうすれば、一見とんちんかんなスタジオの会話が、一本筋が通った良心的に仕組まれた作品に見えてくる。
 つまり、今回の現場中継とスタジオの会話とによって醸し出された、神職に対する表現の違和感を視聴者に提供するというソフトな方法をとったということだ。そうした判断の裏には、直接的な言い方で提案すると、「テレビのくせに偉そうだな。」とか、「いちいち面倒なことを言うな。」とか、「そんなこと、どうでもいいじゃないの。」とか、例によって結果として「自己肯定感を高めることを主な目的」とした、「上から目線の決まり文句」を、反射的に口にして反感の意を露わに表明したり、そうしないまでも番組に対するマイナスのイメージを抱いたりするような不利益についての計算があったのだろうと思う。
 また、その計算の前提には、その手の受け取りをする傾向の人々が増えているということがあろう。どの程度増えているかの統計があるかどうかはわからないが、比較的多くの人々が肌で感じているように思う。
 このように、すぐに「押しつけがましい」と感じてしまいがちな人々には、いくつかの共通点がありそうだ。
 まず「自尊心が異様に強い」ことだ。自尊心が強いのは一種の趣味だから構わないが、強すぎるのは周りが引いてしまう。これも一種の被害だから自重すべきことなのだが、本人はそうとは思わない。周りが引いていることが、自尊心をさらに強くする作用としてはたらくこともありそうだ。そして、滑稽なほど自尊心が強くなる。困ったスパイラルだ。
 こうした傾向は誰もが多少は持っているものだと思うが、その傾向が過度になると、好ましくない言動につながっていく。普段は慎んでいても、いつのまにか表に出ていないか、時折は自ら振り返ってみるべき種類のものだ。自己チェックとしてのキーワードは、「そんなこと言われる筋合いはない。」だ。この手の言葉が実際に出たり、出そうになったりしたら、遅きに失するかもしれないが、自らを振り返るべきなのだろうと思う。
 「そんなことを言われる筋合いはない。」と言えば、それが捨て台詞のようになって相手が黙るか、自分が立ち去るという終わり方になるだろうと思い込んでいる節もある。「言われなくてはならない筋合い」を説明しようとすると、あるいは論議しようとすると、激高するか立ち去るかする。この決まり文句が自分の負けを意味していること、あるいは負けの始めになっていくことに気づいていないことが多いことも特徴だ。
 また、そうした捨て台詞としての決まり文句を、相手に面と向かって言うタイプと独り言のように言うタイプとに分け時の前者と後者は、さらにそれぞれ二種類に分けられそうだ。前者は、威嚇して優位性を保ちたい気持ちが中心のタイプと、周囲に伝えて同調してもらいたい気持が中心のタイプ。後者は、優位性は自分にあるのだとこっそりと自分に言い聞かせたい気持ちが中心のタイプと、自尊心を保つために自分は無傷のまま発言をしたいという気持ちが中心のタイプ。大雑把だが、そんなところだろう。
 次の特徴は、寛容でないことだ。相手の心が理解しにくい。しかし、自分のことは理解してほしい。すると、自分の考えを強固にしていき、周囲からの情報や周囲の傾向を、無視したり、それが自分に関わってくると、拒否するという態度に出る。そして、「うるさい。」という負け犬の決まり文句を口にしてしまうから、容易に判定できる。あるいは、自分が相手に関わっていくと、否定する態度に出る。「腹が立つ。」とか、「むかつく。」とか、幼児性の高い決まり文句を口にしてしまうので、これも容易に判定できる。
 これらの特徴を持つ人々は、概して自分のことを棚に上げるタイプ、そして決まり文句が会話の中で比較的多いように感じる。実際に観察し、記録をとって割合を計測すれば、その症状の度合いや分布なども明確になり、他の現象のデータと突き合わせることで興味深い事実も割り出せるかもしれない。
 問題は、他を下げることによって自分を上にする手合いだ。いろいろな理由で自分のさまざまな能力を向上させようとする気持ちが薄いか、向上させるさまざまな環境に恵まれていないことが原因となり、事実誤認の増加、つじつま合わせのための不適切な方法、そこで生じるストレス、等々。そうしたものが人の性情を歪めていき、その歪んだものを直ぐなるものとして認識するように変化させていく。似たもの同士が相互に意を確かめ合い、確かな常識的な感覚として定着し、そうした感覚によって営まれていく日常生活が寄り集まっていく。これは文化となる。いわゆる文化的ではない文化だ。
 ストレスを解決せずに、解消ばかりに走る傾向を持ってしまうのは、解決が追いつかないからということもあるだろうが、ストレスは解消するものだという思い込みにもよる。こうした思い込みをすり込んだのは不適切な商業主義なのかもしれないが、何かに惑わされていないかどうか自己判断できるような確固たる考えを持ちたい。努力しない変に流されている自分に気づくことがあるからだ。
 そのためにはどんな自己チェックをしたらよいのだろう。
 たとえば、「今日一日、自分は何によって神経を逆なでされたのか。そして自分はなぜ神経を逆なでされたような気持ちになったのか。」とか、「今日一日、自分は何に関心を持って暮らしたか。どうして関心を持つようになったのか。」とか、自罰的でもなく、他罰的でもなく、透明な気持ちで振り返ってみる。こうしたことならば、短時間でしかも無料でできる。簡単に記録しておくと、自分の変化に気づくだろう。その変化が自分にとって好ましいかどうかは、また別に判断すればよい。こうした面倒は、かかった面倒以上の効果があるものだ。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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