恐怖シリーズ239「法医のL氏」⑮

 L氏は、生きている間の魂を救えない宗教は偽物だとも思っていた。死んだ後、幸せになれるという理屈をかざす宗教も偽物だと思っていた。たとえ、それを信じて今救われているとしてもだ。それは、だから今我慢しなさいということであって、本当に絶望的な状況の人の魂を救うことはあっても、そうではない人にとっては、どうかと思うのだった。さして絶望的でもないのに、そのように耐えてばかりいる姿勢を促すことになってしまうから、世の中がますます絶望的な人を生み出す仕組みになっていってはしないだろうかと、そのほうを彼は心配するのだ。そもそも、我慢しなくてもよいのが幸せだろうという考え方が彼にはあるようなのだ。
 また、実績を証明しない宗教も偽物だとも思っていた。そして、会計報告を公にしないのも、偽物の宗教である証拠の一つではないかと思うのだった。すると、彼の考える新しい宗教も偽物ということになる。だが、そのことは何ら障害にならない。なぜなら、彼は、そうした「宗教」を興そうと思っていたからだ。真の宗教とは思わないが、便宜的に必要なものを良心的に創り上げればよいという、一見ご都合主義のようだが、現実を十分踏まえたもの、生きている間の魂を救えるものを目指すのだ。仮にその手段が宗教であったというだけで、目的ではないのだ。真の宗教は、後回しで良い。必要な宗教を創始すれば良い。それができなければ、宗教ではなく、別の方法を考えて実現してもよいのだ。それに、真の宗教は、既に宗教という小さな枠組みではない可能性が高い。
 どうでもよいのだが、彼の希望としては、やはり宗教にこだわっている人々の不幸を見過ごせないということもあって、宗教に代わるもの、しかもさまざまな既存の宗教を含み得るような、一つ上の何かについて、自然に人々が気づくように導いていくことが、世界平和にとって最も必要なことであろうと、そう考えるのだった。自分の人生だけでは為し得ないことかもしれないが、それならそれでよい。後を継ぐ者や集団ができないようでは、自分の考える物自体が間違っているか、まだ時期尚早だったというだけの話だ。そうであるなら、時期が来れば誰かまた似たようなことを考え、それに同調する人々が集まる条件がそろうだろう。逆に、そうした条件がそろったときを、時期が来たと表現するのが筋だとも思っていた。だから、気長に待てばよい。
 いつまでも実現しなければ、救われるものも救われないままに死んでいく人々が増えていくばかりなのだが、そうした条件を揃えていくのも、救われない人々自身であるはずだから、妙な言い方だが、自業自得という表現を使えないでもない。
 それは、救われないと言いはしても、本当は既存の宗教や、自己流の何かで救われている面があるということだ。これは料理と似ている。本当はまずい料理を食べているのに、おいしい料理を食べていないために、今以上のおいしさを知らない、という状況だ。おいしい料理を知ることは、不幸の始まりだ。どうして材料は同じなのに、この料理はまずいのだという不満を持つようになる。これが不幸の始まりでなくて何であろう。
 宗教も同じだ。よりよい宗教を知ることで、あるいは、より自分の状況に合った宗教を知ることで、自分が組み込まれている宗教団体や、自分が関わっている宗教的行事に対して、不満を持つようになってしまうのだ。しかも改宗が許されないということになれば、不幸きわまりないことになる。生き地獄となる可能性もある。
 そうした可能性を持っている宗教というものには、つまり改宗ができるできないという問題を持っているものは、それが存在し始めた時点で、既に問題点を抱えているというのが、L氏の持論なのだった。どうしてか、そのようにしかL氏には考えられなかった。だから、真の宗教、それは既に宗教という性格のものではないものかもしれないが、そうしたものが将来的に生まれなければならないと切に思うのだった。それに彼自身が関われるかどうかまではわからないけれども。
 人の死に関わる仕事につき、もの言わぬ彼ら死者の声を聞く役目を負っている彼、L氏はどうしても、宗教による目的達成を目指すにしろ、そうでないにしろ、どうにも宗教の問題をまずは片付けねばならないと覚悟した。歴史あるものに関する取り組みである以上、個人の力だけでそれが可能かどうかわからぬ。歴史があるということが、誰も克服し得なかったか、至極困難であったかを示しているのだ。彼は分をわきまえている人間なので、最初から結果など期待はしていない。
 だが、だからこそ全力を尽くす。それがL氏の信条なのだ。その結果が、一般的な人にとっては恐ろしいものになったとしてもだ。彼は既に自分の幸福も命も捨てているといえば、理解しやすいかもしれない。キリスト様は磔刑に処せられたが、自分は必要ならば、パンや葡萄酒ではなく、実際に自分の内蔵を多くの人に提供してもよいと思っていた。そのためには、一つの器官を、いくつかに分けてもよいとまで思っていた。また、自分の中で再生がきくものは、時期を見て、また再び可能な限り、取り出せば良いと思っていた。
 つまり、精神的に救うために、信じる信じないのレベルをスタートに持ってくるのではなく、また聖典を熟読させることでではなく、実際に医学的に命を救っていく行為を見せ、生きながらえることができたかできなかったかという事実を積み上げることだ。しかし、他人が必要な内蔵などの体の一部を、自らプレゼントする無償の行為を目の当たりにすることで、人の心は変わると思ったのだ。それが医者としての発想の限界ではあったが、文字通り体を張った行為だ。これによって、またその人も同じように肉体の一部をプレゼントするだろう。これが倫理的に問題があるとすれば、輸血なども同様で、認められないものとなってしまう。血こそ、人の命。失われれば死に至る。もっとも象徴的な内臓といってもよいかもしれない。、血のつながり、血と汗を流す。だからこそ、人はそうしたものを大事にしてきたのだ。
 L氏は、人のあまりにも酷い死に様を五感を通して感じるのが日常だった。立派な僧侶となる修行に、かつては死者が白骨化するまでの様子を見つめ続けるというものがあったそうだ。だが、それも現実を悟るための厳しい修行かもしれないが、変死体の解剖を日常とする者にとっては、修行という意味では何でもないことなので、もっと過酷なものでなければ修行とはなり得ない。何しろ昔は、たとえ変死体であっても、さほど別にどうというものでもないからだ。現代の変死体といったら、それは凄まじいものがある。しかも、彼は素手ではないにしろ実際に触り、自ら切り刻むのを日常としているのだ。そうしたことから、彼は宗教を超えるための入り口に立っていたとも言えるのだ。死に寄り添う仕事という生やさしいものではない。ある意味で自身が死者となり、その死者に語らせねばならぬのだ。
 いったい、自分が興そうとしている宗教は、どのようなものであればよいのか。それは、真の宗教への橋渡しとなるものでなくてはならないはずだ。ぐるぐると頭の中でさまざまなイメージが浮かんでは消えていく。その結果、何も行動に移さずに、頭の中のイメージとして消えていってしまうのではなかろうか。それはそれで滑稽で面白いのだが、そうなってしまっては、やはり寂しいとも思った。だが、これまで自分のように考えるものがいても、結局そのように何も行動に移せなかったのかもしれない。そして、だから何も起こっていないのかもしれない。いつまでも既存の宗教にこだわって固まる人々、翻弄される人々、そうした世界がずっと続いているのは、そういうわけだからではないのか。これは彼の弱気ともとれるのだが、彼一流の現実を見据えるという作業の一つにすぎないのでもあった。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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