変な疑問168「いじめた奴の部屋で自殺しない理由」②

 こうしている間にも、いじめ等の被害者が誤った道を選択しようと考えているのではないかと心が痛む。形だけで、お茶を濁しているようにしか見えない活動から早く脱却しないと、犠牲者は増えるばかりだ。だが、学校でのいじめについて言えば、それを先生の力だけで防止したり解決したりするのは無理だという理由はたくさんある。
 学校内部のことはよくわからないが、第一に、対応する先生の人員不足という根本的な問題がある。生徒一人あたりの学校職員の数は、先進諸国の半分しかいないという統計が公表されているのを何度か見たことがある。同じ資料で、仕事は2倍ほどあるようだ。終業の17時以降に、普通で言うところの仕事が始まるらしい。よく考えたら、それはそうだろう。部活動で変えるまでは子供を指導しているのだから、書類仕事や行事の準備や会議などは、子どもたちが帰ってから始まるに決まっている。その時間に、いじめの対応をしなくてはならないとなると、その対応が済んでからということになる。スタッフ不足、つまり予算が少ないということはそういうことなのだと改めて思う。
 電通で自殺した職員のようには話題にはならないが、多くの先生が精神的、肉体的に悲鳴を上げて、命を縮めたり、結局は死に追いやられているという実態も耳に入る。ネットニュースでも時間外のレッドラインの80時間を超える勤務実態が普通であるようだ。聞いてみれば、その2倍ほどのサービス残業をしていることもよくあるらしい。公務員だから声を上げないだけなのだろう。この辺りの詳しい調査をしないと、教育問題はすべて解決しない感じがする。
 昨今の政治家たちの風景を見ていても、結局はさまざまな現場を全く知らない状況で判断を下しているに過ぎないのではないかという疑いを持たざるを得ない。報告書を見ても本当には理解できないのだろう。おそらく、予算的なことに関係するデータだけの「数字の推移」だけしか目に入らないのだろうと思う。教育の問題でも、特にいじめの問題で子どもたちが救われないのが、そのためではなかろうかと想像すると、暗澹たる気持ちにさせられる。
 第二に、元々先生の仕事の中心的なものではない。授業やら学校行事が中心のはずだ。その上にサービスで部活動の指導を休日にやり、大会への引率と、審判をやるというのだから、殺人的だ。しかも、いじめの問題が起これば、予防のための指導等であったものを、逆転させ、中心的な仕事に移行させなくてはならないはずだ。だが、そんなことは可能なのだろうか。
 当然、いじめが犯罪であることを教えたり、いじめの有無を調査をしたり、いじめが起こらないような学校の雰囲気作りをするのは、当たり前の仕事のはずだが、そうした予防的な仕事や、調査、指導を超えたところの、継続的な対応は、先生を抜きにしては成り立たないが、先生だけでは無理なのではないかと思う。現状がそれを証明しているのではないか。それを放置しているのは、恐らく人件費がかかるからという、結局はお金絡みのことだとすると、悲しいものがある。
 そうした無理を押して無限に頑張るから、早く亡くなったり、精神的におかしくなるのではないだろうか。そうした先生に教えられている子どもたちは、十分な教育が受けられる環境に置かれているとは言えないのではないか。
 この二つの理由だけを見てみても、他のいろいろなことを考えさせられる。そもそも、いじめという人権侵害行為は、隠れて行われるものだという難しさがあるから、監視カメラが必要だと思うのだが、その設置は恐らく教育的ではないということで否定されるだろうし、そのカメラの目を盗んでの新たな方法を「いじめの加害者」は考えるだろう。
 いじめの加害者はそれほどに悪質であろうと思う。未成年であっても、いや未成年であるからこそ、十分に追及しなくてはならないということを、なぜか勇気を持って言わなければならない社会の雰囲気は、もっと犠牲者が出ない限りは変わってはいかないだろうとは思う。
 そのような墓石行政を待つよりも、家族が被害に遭ったとき、「人権問題なのだから、特異(得意でもよい)の弁舌で救ってあげてよ。ほら、あなたの出番、あなたの土俵じゃないの。」と言われて、どう始末したらよいものかと戸惑うような、中途半端な人権主義者ではない、真の人権主義者が立ち上がるべきだろう。
 そして、加害者への責任追及に関心が無いようであったり、追究の手を緩めているうちは、人権屋さんではなくても、それが誰であれ、いじめやハラスメントに間接的に荷担していると見られても仕方ない風潮を作っていかねばならないだろう。学校の先生は予防的な活動に力を入れるとともに、いじめの発見に努めてもらう。加害者も被害者も、同時に担当する先生に、それ以上のことを望むのは、おかしいことだ。
 だから、加害者の責任追及の手を緩めない担当者が必要となる。それが普通の仕事になっていなくてはならないと思うのだ。それは、公的には警察内に新しい特別の部署を作るしかないだろう。防犯一般にかかわることだからだ。罪に年齢は関係ないだろう。同じ命がかかっているのだから。
 だが、防犯にもさまざまなレベルがある。どのレベルの防犯を仕事にするかということは、よく吟味されなくてはならない。標語の募集、ビラ配り、講演だけでは、当然不十分だからだ。
 いじめ等、子供による人権侵害問題があれば、担任教師や校長や自治体の責任問題とし、徹底的に叩くという手もあるが、その結果は目に見えている。何の解決にもならないどころか、教育の歪みを生むのは目に見えている。それはこれまでの様子を見ていればわかることだ。
 結局のところ、決定打に欠けるのは、これまでの主な矛先の向けどころが見当外れだったからだ。矛先というのは向けやすいところにではなく、向けるべきところに向けなければ、傷ついてはならぬ部分が傷ついてしまい、他にもさまざまな支障を来すことになる。外科手術でも、病巣部を残し、周りの健康な部分を切り取るようでは、元も子もないことになる。現状を見るに、それと同等のことをしているのではないかと疑ったほうが賢いのではないか。
 矛先を向けるとすれば、それは、いじめに直接関わった特定の個人個人でなくてはならない。矛先というと語弊があるから、罰せられるべき相手と表現しよう。監督責任というものが自治体や校長、担任教師にあれば、監督の方法というものがなくてはならず、その監督方法として世間一般に認められたものが、公表されている必要がある。それもなしに、その都度責めを問うようでは、あまりにも効率が悪い。先生たちも困ろうというものだ。
 交通事故が起きて人が死んでしまうのは、交通ルール自体に問題がある場合もないわけではない。親のしつけ不足、年齢によっては親の監督不行き届きという問題である場合さえもある。だが、最も注目されるべきは、年齢にかかわらず、交通ルールを守らずに加害者となった人、つまり本人自体が問題とされなければなければならないはずだ。
 本人の遵法精神に問題があるという判定が出れば、それに応じたトレーニングを成果が出るまで課し、本人の運動機能やそれに関わる神経等に問題があるという判定が出れば、それが解消するまで対応を継続すべきだろう。
 一方、「事故現場で警察官が監視していなかったから事故が起きたのだ。」という因縁をつけることは、結果はどうあれ、それ自体できないことはないだろう。実際に、もっと監視体制を工夫したり、監視人数自体を増やしてくれていたら、みんな交通ルールを守ってくれるようになり、事故は起きなかったということもあるだろうからだ。
 特によく事故が起こる場所はおよそ決まっている。分厚い地図へ事故の発生ごとに場所をマークし、何と何がいつ頃ぶつかったのかが書き込まれ、資料として集積されているはずだ。これらをすべて電子データ化して統計が出るようにすれば、たちどころに、どの交差点には、何時から何時まで人員をどれだけ配置すればよいか、すぐにシフトが作製されるような処理ができるはずだ。
 ソフト代を節約するために入札などをすると、よほど仕様書をきちんとしておかない限り、低予算のため、ただの記録システムと大差ないような、使えないものができあがってしまうおそれがある。だから、まだ電子データ化していないようなら、ソフトの仕様をきちんと示し、中途半端なものにならないように十分検討してからにしてほしいものだ。
 そのようなデータから導き出されたシフト等を根拠にパトロールや拠点での立哨に重きをおけば、警察自体の責任の取り方も変わってくるだろう。根拠をもって正しい対応をしていたということが証明されるからだ。また、何をどのように改善すればよいのかという方向も、具体的に示していけるだろう。そして、何より、最低人数で最大効果得られるというメリットも強調できる。
 とにかく、人の命がかかっているのだから。交通事故死の問題だけでも、死亡に至るまでの時間の基準を改訂するなどの統計マジック等で誤魔化さず、対策の費用を十分に獲得して効果的に正しく運用してほしい。事故の怪我が直接の原因となって半年後、一年後に死亡する場合だってあるのだ。
 事故の後遺症に悩んで自殺する場合だってある。このような、間接的かもしれないが、事故に起因するものは交通事故関連死として統計に入れ、対応すべきだろこう。そうした人も、事故さえなければ死ななかったからだ。  
 それにしても、県によって取り締まり頻度や厳しさに温度差があると感じるのは、なぜだろう。実際に調査して比較したわけではないが、交通事故死の多いところは、概して取り締まりが緩いように思う。これは、個人的な感覚で、気のせいかもしれないが、どうだろう。ネット利用者を活用して、全国一斉に、定期的に調査し、発表できそうではないか。第三者機関的に評価が出せるのは、一つの真実を世に示すということで意義はあるだろうと思う。
 警察内部のことはよくわからないが、交通事故を起こせば、罰せられるべきは、まずは当の本人であって、非難されるのは警察の体制ではないことは確かだ。
 小さな事故を起こしているうちに、再教育プログラムにしたがって、責任をとるようにさせるという形での罰を与えていかないと、後々に重大な事故を引き起こすことになるだろう。このプログラムは、警察だけが関わる短期的なものであっては効果も短期間で薄いだろう。家庭、学校と、子供を育て上げていく中でも実行されているものでなくてはならない。長期プログラムだ。これは、強いて言えば、文化のあり方に近いものだ。
 いじめ問題にしても、同様のハラスメント問題にしても同じだ。不幸なことがあった後の周囲の関係者は、もちろん二度と不幸なことが起きないように、予防に力を入れようとするだろう。だが、不幸にして犠牲者が出てしまった場合には、予防が不足だったとして取り組みを再検討はすべきだ。しかし、責められるべきではない。
 責められるべきは、つまり罰せられるべきは加害者である当の本人でなくてはならない。やって良いことと悪いことの区別を判断する力は、多少の時期的な個人差はあるにしても、本当は小学生程度であっても身についているものと見て良いように思われる。
 いじめ、ハラスメントは、それと意識してやっていることのほうが圧倒的に多いはずだ。「いじめだったとは思いませんでした。」という意味合いの発言があった時点で、「中学生以上ならば、その発言は偽りではないかと疑われるべきだ。そうでなければ、年齢相当の人間的な発達が未熟だとして叱責の対象とし、同時に規程の公的な再教育プログラムに従わせる処分を受けるべきだ。」というような提案を、規定によってなされるようにしていくルール作りをしておくべきだろう。もし、そうすること自体に問題があるならば、問題ありとした根拠を見直すべきだろうという論議が自由になされるような、民主的な雰囲気が育つまで待たねばならない。
 さて、咎められ方の常識は、進化しているはずの時代の変化に合わせて、また、問題となる状況の悪化に応じて、改善されていくのが、健全な司法のあり方だと思うが、実際はどうだろう。日本における六法はどのように改善されてきたのか、また好ましからぬ変更をしてきたのだろうか。どのような理由で改善されずに放置されてきたのだろうか。
 特に、罰という点について、どのような考え方で決められているのだろうか。罰金にしても、物価の変化は無視されていてよいのか。禁固刑にしても、平均寿命の変化や性差の別を無視していてよいのか。懲役刑にしても、歯を食いしばって長時間労働に耐えている一般人の中で普通にやっていけるだけの鍛えられ方がされているとは思われない内容であるのを放置していてよいのか。この辺りの不公平や実情に合っていない罰を放置し続ける、法的根拠は何か。
 とりわけ、被害者感情に全くそぐわない罰、遺族の生きる気力を全く失わせてしまう罰、司法のあり方に疑いを抱かせるような罰、こうしたものを見直すということをしていかないと、いつかは大きなしっぺ返し、遵法精神を少しずつ蝕んでいった末の大きな破綻を招きかねない。たとえ、今後数十年は波風たたなくとも、その間に蓄積した揺るぎなき国民感情の変化が、好ましからざる実行に走らせるとも限らない。成文化されたものの上に胡座をかいていると、その寿命を短くすることになる。昔と違って、時代の変化は格段に早い。いつまでも「早急な法の整備が必要ですね。」というコメントでは誤魔化しきれないのだ。
 必要な法律や罰則も、作られた時点から古くなる。最初からそうした不完全なものだ。だから、不完全であると諦めて、その不完全であることのよさを生かすしかない。つまり、定期的な見直しを当たり前に行うのだ。加除修正はつきものだという感覚が必要だ。間違った加除修正は、次の見直しでさらに不都合を直せばよい。
 そうしているうちに、これまでなかったような新しい罰が生まれる可能性もある。みんなが歓迎する罰、みんなの遵法精神が高まるような罰、そうした新しい発想の罰が、ただ単純になかったために、被害者が後を絶たないような犯罪国家となっていくようでは困るのだ。
 では、どのような罰が、新しい発想の罰として、候補に挙げられるだろうか。皆目見当もつかないが、およそ常識的でないものでなければ、これからの常識に対応できない可能性があるだろう。
 いじめ等による自殺が、いじめ等を行った者の部屋で行われない理由の一つとして考えられるのは、そのような嫌がらせではなく、きちんとした法的整備がなされ、そうした法によって裁かれる世の中になってほしいという、切なる願いを抱いていたからだと思う。嫌がらせのような死に方が流行るような世の中ではいけないという良識が、死ぬ間際まではたらいているということだ。
 では、他の理由を考える前に、新しい発想の罰というものに思いを巡らせてみたい。専門的な知識はかえって邪魔になることが多いかもしれない。全くのど素人だからちょうどよい。だが、国民のほとんどは、ど素人なのだ。ど素人が犯罪を犯し、専門家によって裁かれ、ど素人が罰を受ける。被害者もど素人だ。この構図はある意味興味深い。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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