変な疑問171「西方浄土ってどこなの?」④

 まず初めてその言葉を聞いた弟子はどうするだろう。
 「西方の彼方」からやってくる商人などの旅人の人々の話を聞き、情報を得ようとするだろう。また、言い伝えや言い伝えを記録したものを調査するだろう。その中に人々の古い記憶が刻まれているかもしれないからだ。
 たとえば、人類がアフリカで生まれたという史実に関するものなどだ。極めて古い昔、長い年月にわたり、そして長い年月をかけ、今でいうアフリカから東にあるインドに向け、人々は移動を何度か試み、東方各地へたどり着いていった。更にインドを越して、その先へ去っていく者たちもいた。
 ただ、西からの旅人に限らず、通常の旅人が口にする話題は、大抵は良いか悪いかの両極端のものだろう。もしくは、他の土地と大きく異なる習慣や風俗についてだろう。その中で、話題性が高いもの、つまり、不思議に思うことや驚くことなどを、少し大袈裟に話すという傾向があるはずだ。聴く者たちの耳を驚かせたくなるのが人情だからだ。
 普通のことがほとんどで、普通でないことが少しのはずだ。しかし、伝わるときは、普通でないことがほとんどになってしまう。又聞きになればなるほど、その傾向は強くなり、理想郷が出現したり、地獄が出現したりすることになるものだ。「西方浄土」も、こうした旅人による聞き伝えによる、極端化の産物である可能性が高いようにも感じられる。これは、「恋愛の結晶作用」と類似するものであるようにも思う。
 伝言ゲームのように、伝播し、話半分で聞けば良いことを、敢えて真に受けたり、尾ひれをつけて旅の途中で誇張されていくのを、誰もとめることはできない。旅人は、どうせ流れていく人々だから、話の内容に責任など持たない。良いことは素晴らしく誇張され、伝説化され、美化されていくのも、誰もとめられない。
 何世代にもわたり、こうした他地区からの者との、特別なコミュニケーションが続けば、最初は旅人の放言だったかもしれないが、結局は時の流れの中で、かつて伝えられたものが言い伝えとなっていった内容と、ほぼ一致するようなこともでてきて、「それなら昔聞いたことがある。」という確認作業となり、詰まるところ、その信憑性がますます高まっていくことになる。こういう仕組みであろうと思うのだ。
 それが旅人のルートにおける、それぞれの地で言い伝えとなっていれば、東の方から西の方へ旅をしていく者が各地で得る情報として得たものと、結果として悉くほぼ一致していくため、最初は単なる伝言ゲーム的な現象であったものが、ほぼ共通する伝説の理想郷のイメージを、各地の人々の頭の中に固定していく現象に変化していくように思う。
 単なる情報から、確かな事実として認識されていくメカニズムというのは、案外このような時間をかけての自然なものなのではないかと思う。今と違って、インターネットで広く確認のための資料を手に入れたり、膨大な書籍資料から必要な情報を手に入れたりして、物事の信憑性を短時間で確認することができなかったからだ。
 つまり、野心的な商人や修行僧など、土地に縛られずに行動できる立場の者も、資金や体力の限界を感じた時点で、「西方浄土」とおぼしき地域にたどり着かぬ前に、出発点に戻るのが普通だ。彼らが人々に土産話を語るときには、一つの世界として矛盾のないように頭の中で編集されていく。それが長い年月をかけてのコミュニケーションの中で、共通イメージとしての「西方浄土」を確立させていったのではなかろうか、と推理できないかということだ。
 そうして創り上げられていったイメージの中の「悪い情報」に起源するものについては、最終的には「浄土」の対局にある「地獄」として、その物語が成長していくであろうし、その間に存在すると意識される「この地」は、「穢土」として、さらに強く意識づけられていくに違いない。
 間といっても、地理的な間となると、問題が出てくる。「天に昇るの天、現在地、地獄に落ちるの地下」というような、「上、中、下」という縦の線で結ばれた世界か、それとも「西方、現在地、西以外の方向」というような、横の線で結ばれた世界か、という問題が出てくるのだ。しかし、観念的にとらえれば、縦も横もなく、対極にある世界だと処理することは、一応はできるだろう。ただ、わかりやすいように図式化しようとすると、途端にどのように描いたらよいのかという戸惑いが生じるのは、仕方ないことだ。
 そうした問題がどうであれ、わかりやすいのは、この「この地」の位置は、「さあ、あなたは浄土へ行くのか、地獄へ行くのか。」という分岐点に人々が立たされる構造だ。これは誰にでも理解されやすい立ち位置であることは確かだ。
 さて、このように「西方浄土」をとらえてよいものかどうかは知らない。仏典はもとより触れたことがなく、仏教にも詳しくないのだから、今のところは仕方ない。しかし、お釈迦様の気持ちを想像することはできそうだ。どのような気持ちであろうか。そのあたりから「西方浄土」を見つめることができるかもしれないとは思う。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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