変な疑問172「西方浄土ってどこなの?」⑤

 ところで、地球を離れて宇宙から俯瞰することができて初めて、この星はこの星で一つの世界だという認識が実感された。もしかすると、旧ソビエト連邦のガガーリンやテレシコワもそうだったかもしれない。だが、月面着陸したアメリカの宇宙飛行士たちは、確実に地球を客観視できる位置に立ったのだから、また格別の実感をもって人類の孤独を思い知ったに違いない。彼らはことごとく人生観が変わってしまったという。世界は一つ。しかも、それは、漆黒の宇宙にぽつんと浮かぶ孤独な星の一つに過ぎないのだ。
 宇宙飛行士だけでなく、月面を大地として宙に月のごとく輝く地球の小さな写真を見せられた多くの地球人も、同様の感覚を持ち始めた。問題はその感覚を意識の上にいつまで保持できるかということだ。直接の体験者は長らく保持できようが、動画や画像で間接的に体験した者は、ごく短期間のうちに意識しないようになってしまう。
 つまり、その体験を元に物事を考えるのではなく、優待依然として、身の回りの文化や個人の乏しい体験から、幻想を抱くしかないのだ。直接の体験者は、自ら考え、行動することが多い。日常という幻想から一つ殻を破り、自分の見方考え方も含んで客観視する瞬間を何度か持つことになる行動を自ら取ることになるのだ。
 間接的な体験をなまじいしてしまうと、自分の小さな理解を新しい常識として認識してしまい、もっともらしい弁舌をまことしやかにふるいがちだ。ただ、直接の体験も、下手をすると、事柄の一面だけを強烈に感得しているおそれがある。そこを考えると、直接の体験者の語ることも、そのおそれありという心構えで、かえって心して聴くべきだ。 
 さて、地球を客観して持ち得るこうした感覚は、頭でわかっている知識だけでは持ち得ないものだ。実際に直接目で見たり、少なくとも動画や画像で間接的にでも見たりしなければ、持ち得なかった感覚だ。しかも、映画ではさんざん掲げられてきたはずなのに、その時には持ち得なかった感覚が、実際の写真だと言われたときに、ある感動とともに、改めて湧き上がってくる種類のものだ。
 古い昔ではどうだっただろう。古い時代にも世界が図式化され、模型化されていった。たとえば、ヘビの上の亀が乗り、その亀の甲羅の上に何匹かの象が乗り、その象の背中で大地を支えているという図式だ。そんな巨大な蛇やら亀やら象など存在するはずはないのだが、当時の人々の想像力の限界なのか、目に見えぬものを、目に見えていたもので無理やりに表現することしかできなかったのだろう。苦肉の策だ。
 そうした図式や模型の中で「西方浄土」はどのように表現されているのだろうか。それとも表現されていないのだろうか。これは確かめたことがないが、どうだろう。
 もし、そうした種類の無理やりに作られた想像上の世界の中に表現されていなければ、それが作製された時代には、世界の彼方に「西方浄土」があると考えていたか、具体的な形には表現できないところの世界、つまり人の心の中にあるものと考えていたか、そもそもそうした図なり模型なりを作製する類の人には信心がなくて示されてなかったか、逆に「図や造形にすることなどまかりならぬ、罰あたりめ」、と権威筋から禁じられていたのか。実際にはどうだったのであろう。
 ともかく、この「どこもかしこも現実にそうであってほしいところの浄土」、「どこか知らぬが実際にある理想郷としての浄土」、「目にすることのできない、決してたどり着くことのない観念としての浄土」、こうしたさまざまな性格を兼ね備えた立体的な「西方」が、お釈迦様がイメージしていたものであろうと解釈したい。
 「西方」とは方向のことで、元来は地域を指し示す言葉ではない。だが、地域を指し示す言葉としても使われないでもない。だが、地域であれば、随分と曖昧な範囲の地域だ。しかも、その曖昧な範囲が「浄土」だというのだ。そこに矛盾はないが、あまりにも大雑把なのが気になるところだ。これも疑問の一つだ。
 この「西方浄土」というお釈迦様の発言は、「自分は『この地』の『浄土化』は諦めた。だが、弟子たちよ。後はよろしく頼む。」という願いを託したものであったかもしれない。あるいは、「浄土」が「浄土」である以上、そこからスタートした「浄土化」が周囲に及んでいくはずなので、「西方」から見て「東方」である、「この地」に向かって「浄土化」されてくるのを、心静かに日々精進し、その日を待ちなさいという心得を、弟子にそれとなく示したものかもしれない。
 あるいは、その「西方」へ行って、「浄土」を深く理解し、いかに「この地」を「浄土化」させていくかを研究してきなさいという指令としての意味を込めたものなのかもしれない。さて、どうであったのだろう。これも疑問の一つだ。
 だが、「西方」へ行っただけでは、「この地」の「浄土化」を推進させることはできない。「浄土化」を図るべく、交渉をしてこなければならないであろうし、連絡手段も構築してこなくてはならない。現代のような通信手段がなかった時代なのだから、これは大変な作業だ。言語も異なるだろうから、その苦労も覚悟し、克服しなくてはならない。辞書は最低限作成すべきだろう。当然、一人の作業では無理だ。バックアップも含め、かなりの集団で断行しなくてはならない。また、その間、「この地」の活動が疎かになるから、その備えもしなくてはならない。もしこれが後生への宿題だったとすれば、随分と重いものを課したものだ。
 つまり、「西方」からこちらに向けての「浄土化」と、こちらから「西方」にむけての「浄土化」という両面共同作戦を企図していた可能性があったのではないかと見れば面白い。これは大胆すぎる想像だが、本当に「この世」の「浄土化」を図ろうという野心があったとするならば、まず「この地」から、そしてその拠点は多い方がよいに決まっている。
 当然、この一大事業は組織的に行わねばならない。その活動を支える経済的な支えは十分だったのだろうか。信仰の力だけでは何事もままならない。信仰の力を背景とした集金システムの確立は不可欠だ。先立つものなしには、いつの世でもどこでも何もできはしないのだ。
 もちろん、お金がこの世の中にない時代には、そうした大事業は難しかったはずだ。物々交換の時代では、腕力や話術によってものごとを成し遂げていたのだろうが、小規模の変革に終始していたのだろうと想像する。いや、腕力や話術はもちろんのこと、経済力の代わりに恐怖させる力や畏怖させる力、そしてそれらを含んだ、信仰の力こそが大きな事業を成し遂げていったと想像する。その信仰の力に経済力が加われば、一大事業も、その後の影響の是非はともかく、成し遂げられるやすかったのではなかろうか。
 ただし、「西方浄土」が行ける地域で会った場合、そこへ行って帰ってきた者の「浄土」についての解釈が、一様に同じだとは考えにくい。「浄土化」する方法についての方針も、一様に同じだとは考えにくい。そして、「浄土化」の拠点の多さは、後の大統一に向けての障害となるおそれも十分にあったはずだ。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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