日々雑感352「失言制作と不祥事暴露を同程度にやり続ける覚悟はあるか」

 今のようなやり方なら、失言などはどれだけでも見つけることができる。状況から言葉を引きはがし、その言葉の一部分をピックアップすればよいのだから。不祥事も誰に注目して探し出してきたかというだけの話で、材料などどこにでも転がっている。こうしたことが仕事の一つなのだから、別段それはよい。
 問題は、この報道姿勢をどの政権に対しても公平にやり続ける覚悟があるかどうかということだ。ある政権に対しては、失言制作と不祥事暴露の努力の手を緩め、別の政権となったときには、その努力の手を緩めないということがあってはならないのだ。その姿勢の変化の根拠を述べなくてはならなくなるのが、今のマスコミが負うことになる責任だ。それを述べる覚悟があるのだろうか。
 もちろん、報道対象を政権だけに絞るのも不公平なので、政権外の政治家にも、同様の努力が払われなくてはならない。どちらかに偏るのは、結果的に何らかの政治的な活動を報道関係者が行っていることになると見なされるだろう。
 さて、そんな報道姿勢の変化の根拠を述べるような誠実さをマスコミに期待する方が間違っているのだろうが、世の中何が起こるかわからない。いつマスコミが正常化するかわからないのだ。その時には、「今、失言制作と不祥事暴露の手を緩めているのは、これこれこういうわけがあるからです。」とか、「今、失言制作と不祥事暴露の手を緩めていないのは、これこれこういうわけがあるからです。」とか、説明責任を果たしてくれることだろう。
 取り敢えずは、その説明責任をどの程度果たすかで、どのメディアが、いや、どのマスコミ関係者が、比較的信用できるかという、国民の評価が決まってくるだろう。おそらく、マスコミの信頼回復はそこから始めるのが、よいかもしれない。
 上手にそれをやらないと、「失言や不祥事がないのではなく、何らかの理由で、その手を緩めているんではないのか。怪しいぞ。」とか思われてしまう。
 過去はどうだったか。録画しない以上、テレビの放送内容はその都度消えていくから、証拠が残りにくい。そこを計算して、テレビの放送内容の分析は手厳しくしなければ、民主主義が揺らいでしまう。しかし、これは実際にやると大変時間がかかってしまう。だから、そうしたチェックを公正に行う独立したチェック機関の設立が必要になってくる。これは先立つものが必要になるから、そうした面で、テレビの放送局は守られてしまっている。今後もここが民主主義の穴となっていくことだろう。
 そこで、新聞や雑誌が注目のしどころとなる。これらはそのまま記録に残るからだ。たとえば、新聞などは公共図書館に古い時代の者から蓄積されている。縮刷版で通して読んでいけば、いろいろなことがわかってくる。もちろん報道結果を確認するために、新聞以外の資料も見ていくのだが、報道すべきことを責任もって報道しなかったために生じた国民の不都合が浮かび上がってくる。購読料を徴収しながらの失態なのか、それとも、購読料を徴収しながらの背信行為なのか。それが問題だ。 
 

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