変な疑問173「西方浄土ってどこなの?」⑥

 そのような障害は、「浄土化」の拠点同士が遠い将来において相争うことの原因となろう。結果として、あるいは計画として、複数の拠点による「浄土化」は、「浄土」を追求つつ、逆に「穢土」を増やしてしまうという、大きな矛盾を抱えたものになっていくように思う。地域差を払拭することは不可能だからだ。
 地域の文化、地域の政情、地域の人々の性質等々、皆異なるものになってしまうのは当然のことで、絶対的な常識と思われることでさえも、食い違うことがある。
 常識が異なるだけでなく、もちろん感性も異なる。したがって、それぞれの地域で、どのようなかたちで「浄土」がとらえられ、どのように「浄土化」を図ろうとし、どの程度「浄土化」していこうとするのかも、異なるだろう。しかも、地元で発生した「浄土化」の動きと、よその地域から流れ込んできたものとが、どのように影響し合うのかという問題もある。
 こうした様々な状況の中で、全く新しい発想の宗教、似て非なる宗教、真逆の発想の宗教が発生し、互いに勢力を争うようになる。主張と批判のなかで、皮肉にも自ら「穢土」を実現させていく醜さや滑稽さは、不謹慎ながら目を見張るものがある。人間の本質がそこに透けて見えるのだ。
 すると、「浄土」の信仰、「浄土化」の努力に伴う、宗教的対立や血塗られた事件の連続も、苦難の道を敢えて体験させるという意味では、人類に課せられた必要な修行、必要なステップなのだろうとは思う。
 宗教にかかわらず、いつの時代でも、指導者は理想を説く。しかし、実際の担当者は各地の土地柄、歴史、文化などの踏まえるべき現実を念頭においた、それなりに合理的な活動を、それぞれの地で長年にわたって積み重ねていく。
 その中で、次第に毛色の異なるものが発生して定着するようになると、元来同根の哲学を持ったもの同士が、互いに争い合う姿勢を見せることになる。同一の根からごく自然に成長していった分派同士が紛争を起こしたり、抹殺し合ったりするのだ。
 こと宗教においては、その傾向は強かろうと思うのだ。何を思ったか、実際に「西方浄土」に行こうとして旅立った者たちが、自分なりに「浄土」らしき地域を見つけ、そこで学んだとすれば、志あればこその「浄土」探しだったのだから、学んだことを行動に移そうとしたときの活動場所を、「この地」、あるいは「気に入った地」ですることになる。当然「浄土化」しようとするので、そうした複数の地域が「浄土化」の各拠点とならざるを得ない。すると、遠い将来の紛争の種となる。
 ゆえに、先見の明で、「西方浄土」へは行ってはならぬ、たどり着いたと思われてはかなわぬという思いを抱き、「西方」という方角だけの曖昧な表現で伝えたのかもしれない。もちろん、距離的な表現も「十万億土」とあるが、これも意味としては無限の彼方というに等しい。この距離的な表現は、地球を球体としてではなく、平らなものとして見ているか、地上ではなく、宇宙を視野に入れているかという問題にもなってくる。   
 このような大雑把で適当な表現では、「西方浄土」などというものは嘘なのではないかという疑いをもたれる。しかし、適当であるから確かめられないともいえる。確かめられないのだから、信じるしかないのだ。
 これでは嘘をついているのと同じだが、嘘も方便ということだ。あるいは、大雑把な表現によって、より神秘性をもたらすものとして計算された表現であるのかもしれない。こうしたところも疑問の一つだ。
 お釈迦様は思慮深いので、こうした安全策をとりつつ、「西方浄土」はあこがれの地、目標の地として確かにある、だから先ずは「この地」で諦めずに頑張りなさい、もしかすると西方にある浄土が広がりを見せ、いずれ「この地」が「浄土化」の波にのるというようなこともあるだろう、だから、できるだけ大勢の人々がその波にのって救われる力を、自分自身につけていくように、「この地」で上手にみんなの意識を高める指導をしなさい、ここで頑張るのです、などというような、そういう意味をこめての最期のお言葉だったのだろうか。さまざまに想像できる。このあたりを仏教界ではどのように解釈されているのだろうか。疑問百出だ。
 さて、「十万億土」という表現もあることから、「西方」とは、もしかすると(相当のもしかするとだが)、地球表面の接線上の「西方」、つまり宇宙空間なのかもしれない。冗談に近い想像かもしれないが、どうだろう。十万億土は地球サイズではなさそうな数字に見えるのだ。十万億土の単位が「土」なら、それは土地ということだろう。それは地域という意味の土地だろうか。それほどの地域は地球上にはない。やはり宇宙空間にそれは求められるべきものだろうか。
 すると、その地域は星々の数だろうか。十万億というのは、十億ということなのかという疑問もあるが、十億程度の命のない星々ならば、この天の川銀河に限っても十分すぎるほどある。命を育んでいない星々なら、確かに汚れてはいないだろう。人間も住んでいないから、確かに穢土ではなく、浄土だろう。命を拒絶している意味、そうした環境がもっている意味を、人間サイドからの価値づけではなく、宇宙的視野から見直す必要があるかもしれない。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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