変な疑問174「いじめた奴の部屋で自殺しない理由」④

 日本の場合は、自殺についての法律上の制約というものは見当たらない。法律上の制約がないうえに、認められる認められないは別として、文化として「心中」とか「切腹」とか「殉死」とかいうような、自殺の文化というものの名残がまだある。日本らしく自殺にさえも寛容なのだ。そして、いざというときには、実像はどうあれ、爆弾三勇士のようなはたらきや、特別攻撃隊のような自殺攻撃も生み出す国柄だ。万歳突撃に至っては、他国では恐らく理解に苦しむ行為だろう。
 法律や文化が自殺に寛容なところがある一方、宗教の場合はどうだろうかという疑問は残る。自殺が罪にならないという宗教があったとすると、その場合、許される自殺の条件とはどのようなもので、それをどのように言葉で表現しているのだろうかという疑問がわいてくる。敢えて文言にして記述する性質のものではないかもしれない。習慣法的に規制がなされている可能性もあるということだ。だから、文献だけを資料とするのは好ましくはない。
 海外では、集団自殺するようなカルト教団のようなものがあって、それがニュースとして報じられたこともかつてあったように記憶している。また、密教の即身成仏などというものは修行なのかどうなのか解釈はどうあれ、客観的に見て明らかに自殺だ。
 さて、各宗教で、自殺というものはどのように解釈され、どのように評価されているのだろうか。実にたくさんの疑問が湧いてくる。「これこれこうした自殺は許されるが、これこれこうした自殺については許されない」というような自殺の是非を論じているものがあるかもしれない。あるいは、「これこれこうした自殺の方法は許されるが、これこれこうした自殺の方法は許されない」というような方法に関する規程を論じているものがあるかもしれない。成文化されているもの、されていないものの両方の面から調べていく必要がありそうだ。差し当たって想像するに、「自殺を禁止する」と明確に定めている宗教はあっても、「いじめた奴の部屋で自殺してはならない」と定めている宗教はないのではないか。
 だが、一つ言えることがある。それは、「所変われば品変わる」と言うが、所が同じでも、時代が変われば、法律だろうが、文化だろうが、宗教だろうが、何だろうと変わっていくのが普通だということだ。逆に、変わらなかったために、陳腐化してしているものも意外と多そうではないか。
 ただし、経典等に禁止事項を書き連ねるとしても、その条文には数量的な限界がある。また、状況が変わるごとに経典を書き換えているようでは、宗教的権威にかかわる問題となってしまう。だから、細かくは規定せず、その都度の解釈で運用できるような、抽象性を持たせておくことが大事だ。
 だから、「具体的に禁止されていないことならば、どんなことをしてもよい」ということには、なかなかならない。自殺禁止と書いてないから、自殺してもよいとはならないし、自殺禁止と書いてあっても、それが実質的にいじめた奴の部屋で行う「報復的自殺」であっても、「命懸けの修行」と解釈されるような文かがあれば、これを実行してもよいという解釈になるかもしれない。
 この辺りの問題は、結局は文化の問題となるだろう。文化は、法律や宗教のように記述されることはない。もし、文化について記述されたものがあるとすれば、それはその文化についてまとめた研究書や資料の類だけだろう。
 一方、たとえば、新種の犯罪であったため、「現状の法律では問題がなく、したがって罪とはならず、罰もない」という、被害者やその家族等の関係者にとっては、いかにも理不尽なことはあり得る。「疑わしきは罰せず」ではなく、新種の犯罪であったために、関係する法律がないので、罰することができないという場合だ。「すみません。罪になるとは知らなかったので、やってしまいました」となってしまうのだ。これが子供であった場合、どこまで許し、どこから許さずに罰するかという問題だ。
 自殺の場合は、あまりにも頻繁に起こる。だから、罪であったとしても新種でも何でもない。実行した者が既に死亡しているので、現実的には罰したくても罰するのが難しい。せいぜい死体を晒すぐらいが関の山だ。ただ、自殺未遂で生きながらえているならば、それが原因で他人を死なせたり、傷つけたりしたときには、過失致死傷罪に問われるぐらいだろう。
 いじめた奴の部屋で自殺をすれば、どうなるのだろう。死体遺棄罪があてはまめられるのだろうか。本人が自分の死体を遺棄するという論理は成り立つのだろうか。死に方によっては、この上なきトラウマを植え付けることになるので、最大の報復となるだろう。もし、トラウマにならなくても、悪霊となって取り憑けば、死ぬまで報復は続くことになろう。その家は事故物件となるから、売るにしても安く買いたたかれるだろうから、結果としては経済的な制裁ともなり、遺産がその分だけ乏しくなる。
 部屋に取り憑くのではなく、本人に取り憑けば、事故物件とならず、その家族が被る被害はやや軽減されるだろう。実際に悪霊になり得なかった場合も、遺志を継ぐ者によって悪い噂を立てれば、悪霊が存在するのと同等の効果を与えることになる。自殺する者は、そこまでやる覚悟があるかどうかということが問われる。決して発作的に事を為し、あらぬ人に迷惑をかけることがあってはならない。この試みが成功しても、罪なことをするわけだから、成仏できないかもしれない。
 だが、元々成仏しようなどという気持ちにはなれないはずだ。成仏せずに、死霊、悪霊となって苦しめ続けてやるという思いに満ち満ちているのだから。できるだけ罪つくりな死に方をし、たちの悪いものに変化してやるぐらいには思っているはずだ。
 では、どうしていじめた奴の部屋で自殺せずに、他の場所で自殺してしまうのだろう。それは、いじめた奴が一人ではないからだ。大抵は複数の人間がいじめにかかわる。多勢に無勢という安全地帯でのみ、臆病な「いじめ実行者」は活躍するからだ。見張り役もいるだろう、囃し立てる役もいるだろう、実行する役もいるだろう。全部がいじめ実行者だ。だが、迷うことはないはずだ。最初の実行者をターゲットにすべきだろう。最初の一人目が居なくなれば、いじめは撲滅されていくだろう。大人が裁かなければ、被害者が報復するというのは、好ましくない図式だが、どうしても自殺しなくてはいけないということになったら、そこはどう考えるか。
 どうしても、複数の「いじめ実行者」に報復をしたいのなら、血でもよいだろう。献血のように400ミリリットル抜いても死なない。これなら複数の相手に対応できる。最大の相手には、こっそり部屋に入って自殺ということなのだろうか。死体を直ぐに移動させられないような工夫はいくらでもできる。
 だが、いじめた奴の部屋で自殺をするというケースは聞いたことがない。そうした精神状態ではないのだろう。恐ろしくて家には入れないのだろう。だが、死ぬ気になれば何でもできるものだ。ということは、こうしたケースを流行らせないために、偽の事実を報道しているのだろうか。例の、社会への影響を配慮してというやつだ。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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