変な疑問176「西方浄土ってどこなの?」⑦

 このように地球にとどまらず、宇宙を視野に入れていくならば、「西方」に向かうのは、地表に沿った方向ではなく、その場から西へ接線方向に地球を離れていくことを考えなくてはいけない。厳密に言えば、向かった途端に空中浮遊する必要がある。とても人力では無理なので、大気圏内はもちろんのこと、宇宙を航行する乗り物が必要となる。およそ現実的な話ではない。だが、現在不可能とされていることを可能にするため、科学者を中心とする多くの人々が、今日まで科学技術を高めてきた。その高まり方のバランスはともかく、これからも血のにじむような努力を重ねて高めていくから、いつの日にかきっと、今よりも容易に地球を離れられるようになっていくことだろう。
 これはよく考えてみれば、それほどおかしな話ではない。海に向かう船が水平線のかなたに姿を次第に沈めていくという事実、高い山に登れば遠くまで見えるという事実。こうしたことから、地表や海面が曲がっているということは、どう曲がっているかは別として、昔の人でも簡単に想像はしていたはずだ。ただ、どう説明したらよいかわからなかっただけだ。説明しようとすると、おかしなことが一杯出てくるからだ。でも、曲がらずにまっすぐ行ったらどこへ行くか。それは空しかないだろうということを理解することは容易にできたはずだ。
 地表では、行っても行っても決してたどり着かない遠いところ。空には行けなかったのだ。誰も現状の姿や、生活の延長では行けない所だ。まっすぐ行くと、そうした上空に行くしかない。夜、そこには星が瞬いている。美しい。星々は西の空へ常に移動していく。そこには何があるのか。日々の生活に汲々としている庶民はいざ知らず、日常生活から少し離れた階級の人々にとって、「西方浄土」は想像上の宇宙の彼方。昔からそのように思われていたのかもしれない。現代よりも星々が美しく圧倒的な数が目に見えた時代だ。どんな宇宙像を思い描いていたとしても、空と星の存在感が今よりも相当に大きいことだけは確かだ。
 本来は行く努力をしなくてもよかったかもしれない宇宙へ、敢えて行こうとする「人類の意志」は、学術的な興味や産業の開拓だけではなく、この「西方浄土」の類のイメージが、隠れ原動力の一つとなっているのかもしれない。
 仏教徒に限らず、本能的に世界中の人々が、形や表現はどうあれ、「浄土」的なものを宇宙に求め、そこへの到達を願望しているのかもしれない。聖なるものは空から来る。超能力で空を飛ぶ。人々の願望はそこにあるかのように感じる。これまでの人類の総力が、実際には最終的にどこに向けられているのか、どのような紆余曲折を経て、結果としてどの方向へ歴史が向かっていこうとしているのか。こうしたことを、調べたり観察したりして、推理することは、とても面白そうだ。
 さて、月に行ったり、惑星探査機を飛ばしたりするのは、結果として火星という「浄土」に向かうための準備となっていると考える人も出てくるかもしれない。火星が「浄土」的かどうかは、現時点の通常の感覚では「ノー」だが、考えようによっては、あながち「ノー」だと言い切れない。このように、考えの幅をたいへん広くしておくことは、間違わないためには大事なことではないかと思う。それが、たとえ太古、火星に火星人がいたと仮定し、しかも結局は滅んでしまったり移住してしまったりしていたとしてもだ。
 ただ、次のようには言えそうだ。本来「浄土」であったはずの「浄土」を、人が「穢土」にしたのだから、宇宙に人が跳梁跋扈して生活しない限り、宇宙は「浄土」だと。すると、お釈迦様の言った「西方浄土」は、地球の接線上の西の方、つまり地球外の星などを含む宇宙空間、しかも自転公転で回転しているから、その地点から西へ延びる接線が回転して作る平面に沿うあたりの、平らな範囲の宇宙空間のどこかということになってしまう。
 そんな平たい宇宙空間や、そこを通過するような星々に棲む生物を通して学べという意味で「西方浄土」と言ったのだろうか。学ぶに値する生物がいたとすれば、その宇宙の生物が、観察可能か、接触可能か、通信可能か、相互理解可能か等々の大きな諸問題を解決しなくてはならない。これはたいへんなことだ。
 したがって、生物から学ぶというよりは、そこを通過する星々や宇宙空間に存在するさまざまな物や現象などから、「浄土」とは何かを感じたり学んだりする姿勢を持つことからスタートするほうが現実的であるように思う。そして、その作業に携わって責任を負う担当者は、科学者だろうから、宗教的な色彩の濃い「浄土」という言葉は使用せず、科学的にどう表現されるのが適切であるかを考えて、それを広報する努力も必要になってくるだろう。
 これから誕生するであろう、あるいは、これから進歩していくであろう、正しい宗教のために、現在の科学はある。もちろん、自然科学だけではないが、そのようにう考えている科学者は、もしかしていないだろうか。知れば知るほど神秘の世界に近づいていくということはないだろうか。科学の進歩が止まったとき、そこから先が宗教の領域になる。どこまでも知るためには、だから、宗教を否定する姿勢と同時に、宗教を創造する姿勢を持たねばならないのではないかと思う。瀬戸際が移動して、物事のとらえ方が変化していくからだ。
 科学は宗教を否定してきた面もあるが、宗教をどう科学的に解釈できるかという作業を怠るようでは、科学的な姿勢が偏っているのではないかと思ってしまう。もし、そうしたことに費やす暇を捻出できない仕組みや風潮、伝統、思い込みなどがあったとすれば、作業的な功績を上げることはできても、重要な新しい分野の開拓は難しいかもしれない。
 このような想像を重ねていくと、妄想に近くなってしまってきりがないが、気になるのは「宇宙と一体になる」という意味合いと類似する表現が案外といろいろな宗教でなされていることだ。一体化は、以下のように最低三種類あるように思う。最初から一体化しているとは思うのだが、敢えて一体化しているという意識を持つことが必要だということなのだろう。だが、宇宙の意志と交流するというようなレベルの話にまで進んでしまうと、どうしても戸惑ってしまう。意志といった時点で、その意志の主体を人の姿としてイメージしてしまうからだ。
 そうすると、「神は自分の姿に似せて人間を作った」的なところにいってしまうのだ。それはもしかすると正しいのかもしれないが、正しくないのかもしれない。取り敢えず、なぜ似せたのかという理由がよくわからない。それにしても「宇宙との一体化」というようなものはどのように納得したよいものか。これも疑問の一つだ。宇宙自体が神だと仮定すると、神と一体化するということになってしまう。その一体化とが神の意志を知るという程度のものであれば、幻想レベルでそれはあり得るだろう。もっとも、幻想は幻想としての立派な価値があるのだから、幻想レベルといっても別に貶めているわけではない。
 さて、「宇宙との一体化」というものが、「浄土」と関係あるのかどうか。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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