突然思い出したこと178「職業適性検査の結果」

 職業適性検査というものがある。自分の検査結果を見て、なるほどなと思わされた。自分では意識していなかった一面を鋭く評価していたように感じたのだ。
 結局、検査結果とは正反対の職業に就いた。自分を鍛えるとか、自分の可能性を広げるとか、そういう意識の方が強かったからだ。これはいくつかの利点がある。異色の存在となり得ること。客観的に職場を評価できること。新しい可能性を職場にもたらせること。
 所謂、適職と言われるメジャーな存在と比べ、苦しい面は多々あるけれど、最終的には真の功労者たり得る存在になれると思うのだ。自分自身はなりきれないが、そうした手応えというものは常に感じることができる。
 しかし、楽に生きようと思ったら、適職に就くのがよいだろう。だが、本当に面白いのは適職でない場合だ。そうはいっても、エネルギーの足りない人は避けるべきだ。直感だが、適職なのは、2割前後の人たち。適職でないのは、一割前後の人たち。どちらでもないのが、残り七割前後の人たち。こんな割合が平均的なところではないかと想像する。もちろん、どちらでもない人たちは、適職となるように努力する人たちと、そうした努力をしない人たちに別れる。
 この適職というものに二種類ある。肉体的、精神的に平均的な人たちにおける適職、そして平均的でない人足りにおける適職だ。さらに、平均的でない場合に二種類ある。平均以上と、平均以下だ。
 たとえば、平均以上に筋力がある人たちの適職、聴覚が平均以下の人たちの適職を考えてみる。筋力が平均以上なら、物を運ぶ仕事や筋力が生かせるスポーツ選手の仕事が適しているだろう。あるいは、筋力がない人を支える仕事が適しているだろう。聴覚が平均以下なら、猛烈な騒音の環境下で働く仕事が適しているだろう。あるいは、より聞こえない人を支える仕事が適しているだろう。他にもいろいろとありそうだ。
 しかし、肉体的、精神的な特徴だけで、適職というものを決めてしまうのは危険であるように思う。社会全体が目指す世界があり、その世界の実現のために人々の営みがあるとすれば、仕事はその最たるものだ。その仕事は、然るべき必要人数があるからだ。しかも、それは時とともに、職種や必要人数が変化していくからだ。
 故に重要なのは、適不適ではなく、どちらでもない人たちだということになる。そうした人たちの意識や、そういう人たちに対する社会のはたらきかけが問われる問題だ。それは、職業適性検査の検査結果をどのように解釈させるかという、検査者(検査担当者ではなく、検査の必要を感じ、検査することを決定した者)の責任に負うところのものだ。この責任は大きい。
 その検査者の言葉一つで、身の振り方、ひいては生き方が大きく変わるからだ。まずは、単に「参考にしてね」というような無責任な扱いではすまされないものだ、という意識が求められなくてはならない。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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