突然思い出したこと181「雪だるまを達磨らしく作ろう」

 言文一致ということがあり、明治初期大いに先人たちが苦労をした。お陰で「~だ」「~です」「~である」という最低三種類の日本語の文末スタイルが捻出された。これにお国言葉が加わり、古語も混じって、実に豊かな表現力を獲得した。時と場合によって文末を使い分ける芸当は、英語や中国語にはなかろうと思うのだ。
 さて、言文一致はともかく、言葉と物事の一致はどうにも必要だと思うがどうだろう。当然と言えば当然だが、そうではない場合がある。
 たとえば、「雪だるま」だ。雪さえ積もれば、親が言いつけるまでもなく、どの国の子どもたちでも必ず「雪だるま」の作製に取りかかる。だが、日本の子供は「雪だるま」なのだから、「達磨大師」に似せて作らねばならない。つまり、然るに、実際のところ、例の赤く塗られた「達磨の置物」のような姿の「雪だるま」を作っているのを、いまだかつて見たことがない。目にするのは「達磨の置物」のような一体型ではなく、団子を二つ立てに連結したようなセパレートタイプばかりだ。その方が作りやすいと言えば作りやすいのだが、では何故「雪だるま」という名前で呼び続けるのだろうか。
 ところで、インドや中国の「雪だるま」事情はどうなのだろう。そもそもインドで雪が降るのはヒマラヤあたりの高地だろうが、そこに人が住んでいるかどうかということが問題だ。
 ともかく、これは実は大変まずいことなのではなかろうか。「だるま」の形骸化が突き進み、九年間座禅をし続けたと言われる「達磨大師の伝説」が失われることになりかねない。一つの文化の形の喪失が始まりだと見てよいのではないか。
 これは、雪崩の最初の一崩れに過ぎないと考え、危機感を持って対応した方がよい。まず、「達磨大師の伝説」が忘れられることによって次に何が失われるかという問題に目を向けなくてはならないということだ。
 ただ、選挙事務所で大胡座をかいている(?)赤い衣の達磨像だけが目立つようではいけないが、目のない達磨に目を入れるという儀式から遡って様々なところに辿り着くだろうから、あの当選落選報道は続けてもらいたいものだ。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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