変な疑問182「西方浄土ってどこなの?」⑩

 それはともかくとして、「西方十万億の仏土のあなたに浄土はある」とお釈迦様はおっしゃったそうだ。十万でゼロは五つ、億で八つ、計十三個。つまり十兆。十兆の仏土とは何か。仏土とは「浄土」としての一つ一つの星のことか。それほどの数字は宇宙しか抱えきれないと思うからだ。星が十兆個あるということは、どれぐらいの距離幅なのだろう。この星が恒星にしろ、惑星にしろ、地球人にしてみれば、相当の広範囲だ。
 かつて地球が地球となっていくときに、高熱でどろどろに溶けていたということだ。そのときには、だから高熱によって「浄化」されていたと言えるだろう。物質のみで他の何も受け入れていない状態だ。現在と異なり、何者の欲望も、形や動きに反映されていない状態だ。
 太陽はもちろん燃えているから、そうした意味では「浄化」されているとも言えるが、周囲の惑星を「浄化」させていたとも言える。そうした時期から、やがて生命の出現を許すまでに時は移るが、最後には大爆発によって、無理やり差し引きゼロにする。惑星は宇宙の枝葉、生命は宇宙の果実なのだろうか。
 若い太陽の無垢の光は地球に降り注ぎ、強烈な紫外線などが、かつての地球を強力に「浄化」していたに違いない。それがいつしか慈雨というべきものとなり、命を育むまでになった。それは星のなれの果て、つまり宇宙のなれの果てだ。星が導いた姿形だ。その命が抱いた欲望は、星の欲望の延長だ。つまり宇宙の欲望がそのまま進化したものだ。
 宇宙はいらないものは生み出さない。人間も必要があって生まれたはずだ。実は成り行きだけども、成り行き以上のものが感じられる。逆に、いらなくなれば消し去る。あるいは、放置する。
 このように、どのようにでも解釈できるのが宇宙だ。元々解釈する意味のないものだから、好きなように自由に感じ取ればよい。だから、宗教もいろいろなものが生み出される。宗教も欲望から生み出されたものだ。あの世で幸せになろうとか、この世で幸せになろうとか、どうでもよい結果ばかりがちらつかされることになる。あるいは、そこに至るための修行に打ち込むあまり、方法が目的化されてしまったり、派生した文化に目を奪われて実践を忘れたりと、落とし穴や脇道が多い。優秀な指導者が現れないと、信者を増やすためのシステムを作って喜んでいたり、もっともらしいけれども実は間違った方向へ人々が導かれていったりする。
 この世が極楽、この世が浄土だという宗教はあまり聞かない。そこに宗教の人為的な方向性が垣間見える。どんな宗教も幸福の追求をしている間は、道を踏み外す危険性をはらんでいる。振興期は、人々の気持ちを向かせるために、幸福の追求を謳ってもよいのだろうが、その時期を超えた第二段階では、宗旨替えではないが、真実に目が向くように導き、その人において正しい生活と正しい目標を明確化させることが仕事の中心とならねばならないはずだ。無論、第三段階もある。
 この時期、宗教が力を入れなくてはならないのは、この世と自分を正しく見抜く方法を身につけることと、歴史の流れの中で自分の命をどう使うかを考えさせる場を設けることだろう。個人個人が、個人のレベルにおいて自分の幸福を宗教的に追求するどころか、人間って何だとか、人生って何だとか、幸福って何だとか、そうした極めて基本的なところでつまずいているのが現状だ。先人の知恵どころか、自分に必要な知恵さえも見つからないのだ。
 もっとも、日本では本当の信者と本当の指導者を確保すること自体が困難だろう。対立する宗教との抗争に明け暮れる愚行を除外しても、このように、宗教的にはかなり悲惨な状況がある。もしかすると、宗教は役目を果たし終えつつあるのではなかろうか。だが、現在ある宗教、少なくとも現在ある宗教の一部は既に役目を果たし終え、今もそれにしがみつくしかない人々が路頭に迷っている、というような状況をつくってはならない。今の宗教に替わる別の宗教を見つけて改宗するか、今の宗教を進化させるか、宗教によらない解決方法を見つけるか、あるいは自ら編み出すか。
 もしかすると、宗教は心の問題から離れるかもしれない。これまでは心の救済が宗教の役割の一つだったかもしれないが、これから人間がサイボーグ化し、さらにロボット化していく長い年月の過程で、心の問題が片付く可能性があるからだ。心の問題と言っても、情動とか感情とか、そうしたレベルの心の問題だ。この強弱を科学的にコントロールする技術や、必要に応じて一時的に消失させる技術も生まれてくると思う。すると、宗教は心の救済から解き放たれ、別の問題を課題とする存在になるか、それに対応できずに消滅するかの道をたどらねばならなくなる。信者の数を減らしながら変質していく様子が何となく想像できそうだ。
 さて、現在に目を戻す。現状は仏教で言うところの「浄土」とはとても言いがたい。生き物が棲める環境、そして、人間の跳梁跋扈が許されている環境だからだ。欲に塗れた人間の醜い姿がいやというほど目に入ってくる。自分を汚し、他人を汚し、命を汚す。それが命というものの真の姿かもしれないが、あってほしい姿ではない。あって欲しい姿をめざして努力するのも人間らしさだ。
 皆がめざせば、あって欲しい姿に近づき、そうした人々が作り出す社会を支える土地は「浄土」の範疇に入っていくのかもしれない。そのように「浄土化」していこうとする人々が住んでいるということが、既に「浄土」だということができるような、緩い範囲の「浄土」であってほしいものだ。真に「浄土」に回帰させるには、恒星の大爆発による惑星消滅しかない。それを待てなければ、新しい「浄土」を他に求め、人間の一部が他の惑星に移住するしか道はなくなる。
 だが、理想的な人間を厳選して移住しても、それは無駄骨になると思う。たとえ、理想的でない人間を地球に置いてきても、理想的な人間だけが暮らしていることで、そこを「浄土」ということはできないだろう。なぜなら、一定の要件を満たした理想的な集団であっても、やがて集団内での階層化が進むからだ。必ず反社会的な存在が生まれるのだ。この選んで他を捨てては移住して人口を増やす、選んで他を捨てては移住して人口を増やすという作業をむなしく繰り返すというむなしさ。こうして、滅ぶまで永遠に転々と流浪する人間集団の姿が将来見えるような気もする。「西方浄土」と言うが、宇宙にまで広げても、これを地理的に解決することは、こうしたことからも無理がありそうだ。だからこそ、一定の場所ではなく、「西方」という方向の一例を挙げて表現するしかなかったのかもしれない。遠い将来、人間はどこまでもどこまでも宇宙を流浪するしかないのだろうか。寂しいと言えば寂しいが、スリル満点、綱渡りの生き様。ロマンがあると言っておけば、多少は救われよう。
 ただ、そのように流れていく場合、短期間だが、「浄土」的なものが各惑星に一時期存在することにはなる。宇宙を転々と移住する間に、点としての「浄土」がわびしくも瞬間瞬間むなしく輝く。もしかすると、冷凍されて寝ている移動期間だけ、その宇宙船自体が「浄土」だと言えるのかもしれないが、そこには人間としての生活があるわけでもなく、浄土だと自覚することもできない。
 人間にとっての「浄土」とは、いったい何だろう。実際に暮らせる場所であるべきなのか、ただ遠くから見つめ、存在を信じるべき場所であるのか、それとも、やはり死後に所属するだけの安住の地にすぎないのだろうか。仏教では具体的にどう説明しているのだろう。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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