突然思い出したこと183「ハーケンクロイツ、アラー、旭日旗」

 いろいろなマークを突然思い出した。偏狭な目にかかると、世の中から見事に類似の形が切り取られてくる。頭にその形がいつもちらついていて、何でもそのように見えてしまうかのようだ。極まれば偏執狂のようなものだろう。
 まるで脳が一つの捜索モードに固定しているのではないかと思われるほどの働きをしているとしか思われない。そうでないとすれば、よほど暇なのだろう。どうしてもその形を見つけ出してしまって苦になるのなら、それを遠ざけるか、自分が遠ざかればよい。そうしたことが不都合ならば、どうして見つけてしまうのだろうと自分の傾向を振り返る機会をときどき持ち、その背景にあるものを自覚するところから始めるしかないだろう。
 購入した履き物の底の滑り止めパターンにいくつもの「ハーケンクロイツ」を見いだし、ナチスを思い浮かべて気分が悪いとメーカーを訴えた人の話をネットニュースで読んだ。恐らく気分が悪くなったのではなく、訴えることによって自己満足や自己顕示欲を見たそうとしたのだろう。もちろん、本人は気分が悪いから訴えたという気持ちなのではあろうけれど。
 踏み絵というものがあった。この発想は世界に共通しているように思う。この訴えた人は踏み絵効果を否定するのではなかろうが、そうした理屈で納得するよりも、訴えるということをしてみたいという欲求が勝ったのだろう。毎日「ハーケンクロイツ」を踏みつけて貶め、しかも磨り減らして消滅させるということに、この人は快感を感じないのだろうか。やはり目立ちたい、自分が何か行動を起こして成果を上げたいというという気持ちが、「ハーケンクロイツ」を踏みつけ、すりつぶして消滅させようという、反ナチス的行動よりも強かったとしか言いようがない。この人のそうした反ナチス的行動の方が気分が悪くなるというものだ。
 そうしたマークに目が行ってしまうのなら、その履き物を履いた足跡が「逆ハーケンクロイツ」つまり「卍」マーク、お寺のマークになるということに関心を向けることはなかったのだろうか。歩くたびに、足跡がつくとすると、それはお寺のマークになる。何とも有り難いではないか。その足跡としてのお寺の刻印は直ぐに消えてしまうものだが、諸行無常、いかにも仏教的ではないか。
 この話から、かつての自動車メーカーが訴えられた事件が思い出された。正確にはタイヤだから、タイヤメーカーだったかもしれないが、そのタイヤを装着した自動車メーカーが訴えられたとしてもおかしくはない。
 これは「アラーのタイヤ」だ。タイヤのグリップパターンがアラビア文字で「アラー」になっていたのだ。「アラー」の文字は「au」のように見える形だ。おそらくタイヤの接地面は全て「アラー」だらけだったに違いない。神の文字を自動車の履き物の溝の形に使うとは言語道断というわけだ。この事件は新聞では小さく扱われていたが、実際にはどうだったのだろう。新聞記事の紙面の面積が小さくても重大な問題であることはよくある。だから、見逃してはならない。
 記事の紙面の面積が小さくとも、重大で深刻な問題であるというのは、新聞社の謝罪記事が異様に小さいことからもわかるだろう。本当に重大なことは紙面に載らないということも忘れてはならない。報道しない自由を掲げているのだから仕方がないが、僕たち庶民に目隠しをするはたらきを、結果として新聞社がしていることも、忘れてはならない。何をどうして載せなかったのかということが最も大事なことなのだ。つまり、結果としてではない場合が問題だ。
 報道の意図、報道しない意図の両方を見抜くことが、民主主義を守り、育てることの大事な作業の一つだ。新聞社ウォッチャーが多く存在しないと、民主主義などいとも簡単に崩れていくだろうと思う。新聞社ウォッチャーが増えれば増えるほど、購読数も増えるのだから、新聞社としては痛し痒しということにはなろうけれども。報道機関の権威というものがあるのなら、権威に付着しやすい権力というものを、セルフコントロールしなくてはならない。権力に対して新聞社がもの申す構造は当然だが、自分自身に対してそうした働きを持てないようでは、購読数を減らすばかりになってしまうだろう。新聞社が弱くなっては困るのだ。他を批判している間は自分は批判されないという、いじめ構造のようなものが企業体質として生まれやすいのだから、常に自己チェックが要求されているはずだ。最初の進路希望が新聞社だったのも、そうしたことを高校生の頃からずっと思い続けていたからだ。
 さて、「ハーケンクロイツ」を見いだして気分が悪くなったという、訳のわからない理屈のおじさんとは異なり、「アラーのタイヤ」事件は理にかなっている。神聖なものを汚されたという感覚は、恐らく世界中の人々に理解されるものだ。
 尊敬しているもの、崇めているものを足で踏むなどということは心情的に大きな抵抗があるからだ。なるほど、地球は随分と貶められたものだ。人類何百万年の歴史、常に大地を踏みしめてきた。そして、天を崇め、天国にいくことを望み、天におわします神を信じた。そして、自らを育んだ母なる大地を踏みつけてやまない。だが、踏みしめざるを得ない。だから、母なる大地を貶め、その奧に地獄を見い出さねばならなかった。逆に天を崇め、そこに神を信じるしか平穏に生きることはできなかった。神を踏んではならないからだ。
 何かに取り憑かれると、何でもそのように見えてしまう。幻視のようなものかもしれない。周りの人々は、そのように見えてしまうことに対しておかしいと思っていても、本人には見えているのだから仕方ない。あわよくば、その見方が周囲に伝染し、二人三人と増えれば、見えていない方がおかしいということに次第になっていく。これは幽霊話と同じ原理だろう。
 では、いったい何に取り憑かれているのだろうか。それは、一つの見方に取り憑かれているいうことだろう。似ていれば何でも結びつけて理解してしまう。異なるものは認めない。だから、全てが当てはまっていくことになる。そして、信じるに値するということになってしまう。「絶対何々は何々だ。」とか、「結局何々ということでしょ。」とか、思考回路が単純化していくのだ。新しい情報もその基本方針によって処理され、解釈されてしまうので、情報が情報としての役割を果たせなくなっている状態。それが取り憑かれているという状態だということになるのだろう。
 単純化するのは一般的にはよいことだが、思考は単純化させていくための手段なので、それ自体を単純化してしまうと大きな誤りを犯すことになってしまうと思う。
 何でもそのように見えてしまう物の一つに、韓国人見るところの「旭日旗」がある。日本の軍国主義の象徴だからだ。日本との過去の関係を思い出してしまうから、けしからぬ物の一つになっている。そこから先の関係を改善しようという発想はなく、いつまでもその時代にこだわり続け、歴史が展開しているにもかからず、意識がそこでとどまってしまっているという不幸な状況にある。
 後、100年経っても、500年経っても、1000年経っても、未来永劫足踏みを続け、最後には足踏みを続けていることが尊いことだという価値観を捻りださないことには、自分たちが救われないということになってしまうに違いない。忘れないことは大切だが、それが今生きる人間にとって不幸な気持ちを呼び起こすようなものであっては意味がないどころか、マイナスにしかならない。残念なことに、そうしている限り、歴史を重ねるにしたがって、雪だるま式に不幸の種は増え続けることになる。
 さらに、そんな運命にある己の国を嘆くことが美徳となっていくおそれすらある。だが、そうなると美徳であることが不幸であることなので、次第に耐えられなくなる。そこで、自分以外の存在のせいにするしかない。今のところ、こうした単純な理屈が強化されていく途中であるように見える。単純だが恐らく断ち切ることもできない強いものだ。だから、救われない。韓国の人々が信じている宗教ではどのように解決しようと努力しているのだろうか。
 ところで、「旭日旗」のデザインは、見ようによっては至る所に見受けられる。これは韓国人は誠にけしからぬと日々憤慨して生活しなくてはならないことになる。大変なことだ。日本の朝日新聞の社標は「旭日旗」の四分の一、あけぼの缶詰のは旭日旗の上半分だ。ドラマで血しぶきが壁に飛び散っても、旭日旗のようなものができあがるに違いない。どのような血しぶきの跡にしているのだろう。また、実際の太陽はどうなのだろう。日中は目がくらむので、雲間から見える太陽しか拝めないが、それは紛う方無き「旭日旗」のデザインと一致する。日の出を拝む習慣はないかも知れないが、朝陽は「旭日旗」だ。
 元来、太陽を模したものなのだから、韓国人は太陽に当たらない生活をしなくてはならなくなってしまう。だが、それでは不都合が多すぎる。韓国人にとっては厄介なデザインを日本人はしたものだ。もちろん、そのデザイン自体には悪気はない。だから、太陽と太陽光のような不可避なものは暗黙の了解で不問とし、考えないことにするのがよいだろう。つまり、人工物に限って認めないという条件付きの話にするのがよいだろう。人工物だから、そこに悪意を込めることが可能だからだ。そして、人工物だから、気に入らないのであれば、太陽的なものをデザインしないことも可能だからだ。
 しかし、遠い将来、人工太陽が必要となったときはどうだろう。ただし、誇りを守るという一般的に広く認められた方式を採用して前面に出して強調し続けるという行為を通してしか弱みを隠蔽することができない、という無意識の共通理解に基づき、ずっと韓国人はこだわり続けているはずだから、やはり太陽型ではなく、別のスタイルのエネルギー供給システムを要求するだろうと思う。別にそれはそれで構わないけれど、設計上無理があれば、それを理由として論理的に拒否すればよい。論理がどこまで通じるかわからないが、その時代の韓国人が心情を理由として、問題解決の流れが平行線をたどらざるを得ない状況に陥っていく可能性はゼロではなかろう。そのために、次第にいろいろなものが手遅れになっていく不都合に日韓双方が甘んじなくてはならなくなるおそれもゼロではなかろう。
 心情による反応を示したり放出するだけでは、問題解決に不都合があると、人間という生体が集団で判断したために、論理を生み出すための脳を、従来の脳に接ぎ木するように発達させてきたのが人間だったはずだ。こうした脳にまつわる人間存在のあり方をねじ曲げるような発想で歴史を渡り歩こうとするのなら、それは大きな間違いであるだけでなく、本来の働きをさせてもらえない多くの人々の脳たちが長い歴史の中で、脳の構造自体に退行の変化を来すような事態を招くことになりはしないかと心配もする。
 長い歴史の中で築き上げてきた人間の脳の構造とはたらきが、物理的に変化を来すことになりはしないかと、他人事ながら心配するのだ。それは、韓国人が意識して持続させてきた精神的傾向が、歴史の中でスローガンや常識のなかに固定され続けていけば、同じく長い歴史の中で伝統的に受け継がれて進化してきたはずの多くの人々の脳の物理的な構造やはたらきに対して、マイナスの影響を与えることになり続けるという心配だ。本来の使われ方がなされない状況が多くの人々で起きれば、そして何世代にもわたって継続すれば、脳が物理的にも変化を来すことも十分にありうることではないかと思うのだ。ややもすれば、これは用不用説が適用されるような国家レベルの事故となり得るのではなからろうか。
 そうした傾向は社会という枠の中では、次第に広がって固定され、一つの大きな流れを作っていく。それに沿うことは信念を持ちやすくなり、心が安定することにつながる。同時に、生まれつきの国民性というもの育っていたものが、表に色濃く顕れるようになっていくだろう。他の国との関係作りや他の国での生活が困難になってしまうおそれもある。ここまでくると、関係諸国はどうしてあげようもなくなり、にこにこしながら手を引くようになってしまうかもしれない。これもよくないことだ。同じ手を引くなら、導くという意味で手を引かねばならない。
 問題は、そうした面倒で、しかも責任の取りようのない、恐らく絶対に感謝されないことを、身を粉にしてまで誰がするかということだ。少なくとも日本ではない。日本以外の立派な国、韓国人のプライドを損なわないような超大国がふさわしいだろう。どんなに辟易とさせられてもびくともしない器量の大きい国、そうした国でなくてはならない。
 本当に見つけなくてはならないのは、良いものだ。気分を悪くするものではなく、気分を良くするものだ。そうしたものを目ざとく見つけ、敵味方関係なく、ともに喜び合うような習慣を持てば、プラス方向の発想に変わる。そうすれば、より適切な行動が選択されて毎日が幸福感に満ちたものになるに違いない。たとえ経済的に貧しかったとしても、そして不幸な運命に陥っていても、そうしたよいものを見つけ出す目さえあれば、それを元手にして地道に暮らしているうちに、日々希望の持てる、誠に満ち足りた、あたたかな生活を送ることができるようになると思うのだ。いくら経済的に豊かで自由でも、日々戦々恐々として暮らさねばならないようなら、生きている意味さえ見いだせないはずなのだ。
 まずは、マークなどという単なる形を見つめ続けるあまり、とある意味をその中に見いだして固定させてしまうという愚行から自らを解放する修行が必要だ。マークがトリガーとなって、幸福感に満たされれば幸いだ。しかし、不幸な概念が幻想として思い浮かぶようであれば、見つけれる回数が増えるたびに、見つめる時間が長引くたびに、頭の中でその幻想が肥大化し、固定されたイメージとなり、そこに判断がつながることで事が現実化していく。
 こんな不幸なことは一代限りで終わるようにできていたはずだ。ところが、教育という手法で、人為的に世代の流れの中にこれを態度として固定化させていくことができる。敢えて自業自得の韓国人という道を選んだのだろう。そのように導かれたからに違いない。自分で自分に呪いをかけるようなものだ。そのようなことを自国民が行うはずはないだろう。その犯人はいったい誰なのだろうか。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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