突然思い出したこと186「いろはに金平糖」③

 余談はさておき、「親父のはげ頭」で締め括るのには、どのような意味があるのだろう。
 「親父」という一個人の人生という芥子粒のように小さな歴史かもしれないが、家族のために苦闘してきた証、その象徴が「はげ頭」であろうか。無数の「親父」と無数の「はげ頭」、そこに込められている無数の「破滅的命」と繰り返される無数「苦労辛酸」が浮かび上がる。宿命的に威厳を持たねばならぬ「親父」、故に最も身近な権威・権力の象徴としての矢面に立たざるを得ない「親父」、それを至近距離から笑い飛ばすためのものだろうか、どのような「いろはに金平糖」の歌詞であっても、その締めくくりには「親父のはげ頭」が姿を現す。直接の保護者、しかも「はげ頭」はほぼ確実に将来の自分の姿なのだから、本当には嘲笑の意味ではないはずだ。
 見方によっては、歌詞を「親父のはげ頭」で締め括ることは、「親父の勲章」だと見なせるだろう。大人でもそうだが、子供であればなおのこと、「いつもありがとう」などと感謝の気持ちをストレートに表現することは、何とも言えぬある種の恥ずかしさを伴うものだ。それ故、その表現しがたき感謝の反対表現としての「親父のはげ頭」であろうと解釈しておくのが無難な線だろう。
 もしそうでなければ、この歌が単に「遺伝的な特徴の指摘」、あるいは「いろはにこんぺいとう」とつぶやいたり、歌ったり、合唱したりしている子供たち自身の頭髪に対する運命的未来の予告、そして注意喚起」ということになってしまう。これでは童歌として楽しみにくいものになってしまう。この歌詞で表現したい、真の意味合いから外れてしまうのではないかと思うのだ。
 それを深く読み取らず、文字通りにとらえ、悪意ある歌い方をする子供や、悪意ある歌詞だと感じて悲しい思いを抱いている「親父」もいるかもしれない。その「親父」を救うためとは言わないが、次のような幻想を抱くのもたまには面白いだろう。
 ほとんどのお寺のお坊さんは文字通り自らの意志で坊主頭となり、「疑似はげ頭」を己の身に課す。それはなぜか。その答えの一つとして、「親父」の身になりきるためだという理由を幻想してみるのだ。
 この世の無数の「親父」たちが、決して待遇が良いとは言い切れない家族に対して、無償の愛を不器用ながら全力で注ごうと、身を粉にして懸命に生きているのを、煩悩としてお寺が評価していると考えてみるのだ。
 家族のために己の健康を失い、頭髪も失い、プライベートの時間も十分確保できないままに日々人生を消費していく存在。子煩悩という言葉があるが、家族煩悩にとらわれていても、それをよしとして諦めている「親父」たちの涙ぐましい生き方は、手をさしのべるべきものだろう。
 しかも、子供を鍛えるという立場上、母親と比べてどうしても疎まれがちになる存在。その延長で妻からも疎まれる存在。そうした継続的なダブルパンチを受けとめながらも「親父」であり続けようとする。うまくパンチを避ければ避けたで辛い立場に立たされるが、それでも「親父」であり続けようとするのは、母親とは異なる種類の責任からに相違ない。それが生み出す無償の愛に、お寺という組織が深く共感してのことだろうという幻想だ。
 そうした絶対的な愛は、子供の目にはまだ届かないことが多い。自己中心的な性質を持つ者の理解を遥かに超えているからだ。己を無にして命を終える、母親とは異なるスタイルの滅私だ。
 間接的で、抽象的な、子供には理解しがたい愛だ。それゆえに疎まれがちな存在になりがちだが、そんなことは「親父」には既に織り込みだ。直接的で、肉体的な、わかりやすい愛情だけでは、現代社会で生き抜いていく半分の力しか育たない。そう思っているから、「男は辛いよ」と言えば未練がましいので、黙って平常心を貫きつつ、「親父」としての愛を注ごうとするいじましさが、そこにはある。
 男性の方が何倍も自殺率が高いのは、そうしたことも一因となっているかもしれない。突然、どうして生きているんだろうと思って命を絶つのだ。そうでなくとも、日常的に極限まで無理をすることが多いので、死にやすくなるのだ。
 また、平均寿命が5年ほど短いのも、そうしたことが一因となっているのかもしれない。マイペースの生活など夢のまた夢、社運を左右する突然のレギュラーの大問題に、自分の命をかけるのだ。タイムカードは形だけ、持ち帰りの仕事もこの国では普通だろう。睡眠を取るためだけの帰宅というのは別に珍しくはない。異常な生活環境だが、それがこの国を漸く支えているのだ。
 社運とは「親父」たちの命の集合体の将来のことだ。失敗も成功も、家庭内の問題よりも何十倍、何百倍、ことによると何万倍も大きくなる。その重圧に対する鈍感力が事切れたとき、命を絶つ可能性は高い。
 また、その重圧自体に押し潰され、心身の健康を損なう結果を招き、それを皮切りとして全てがうまくいかなくなり、借金問題、家族への無理解、家族からの無理解、諸々の問題が両肩にのしかかり、遂には自殺する場合も出てくる。社会の複雑化に伴う、激烈な労働環境と、時間的にも手の着けられない家庭環境の中に置かれ、なおかつ生き延びるというのだ。これは無理だろう。
 栄養ドリンクのCMのコピーで「二十四時間たたかえますか?」というのがあった。その時には誰も違和感を持たなかったのだから、今考えれば意識というもの、社会の風潮というものは、つくづく恐ろしいものだと思う。兎にも角にも、そうしたものに「親父」の精神や肉体の進化が追いついてないのだ。
 そうした中に若い女性が放り込まれれば、真面目であればあるほどに、ひとたまりもないだろう。男女老若全て活躍するのは素晴らしいことだが、そうした会社社会のようなところで活躍するという意味ではないはずだ。適材適所。それを無視した政策は誤魔化し政策だ。そこを追及しているようには、どうしても見えないのが、この国の情けなさだろう。原因ではなく、結果を稚拙に変えようとするのだ。中学生以上なら誰でも気づきそうなものだが、そうした働き方問題を変に解決しようとすると、間違った意識を育てかねず、最終的には産業自体に不都合が起こることは間違いないだろう。
 心身の進化が追いついていないのに、事を黙って受けとめての努力、そうした一生を潔く受け入れているのが「親父」に象徴される存在だ。それは寂しいことでもなく、もちろん悲しいことでもない。孤高の「親父」だ。
 お寺の坊主の頭は、そうした「親父」たちの生き様の象徴、その現象の目に見えるものの一つとして「はげ頭」を尊敬したものだろう。手をさしのべるには理解することが必要で、まずは見た目からはいろうとしたのではないか。そのうえで、「親父」たちの代役となって修行し、悟りを開き、内面でのたうち回っている「親父」に、有り難いお話を提供するかのようではないか。
 こんな無理やりの解釈を試みているうちにも、いろいろ本筋の理屈はあったとしても、当初は実のところ本当にそうしたものが心情としてはあったのではなかろうかと思われてくる。実際はともかくとして、そう考えたくもなるような現状に「親父」はあるということは言えるだろう。
 一方、「親父のはげ頭」と対極にある、新陳代謝の激しい汗臭い子供の頭は、今と違って香りの良いシャンプーですっきりとさせられなかった時代が数百万年も続いてきた。恐らくシラミ等の不快害虫のすみかだったことだろう。石けんもない時代や地域では、何で頭を洗っていたのだろうか。やはり米の研ぎ汁だろうか。では、稲作以前の時代では何で洗っていたのだろう。
 不思議なのは、「いろはに金平糖」の歌詞の中の「親父」には、老いぼれたイメージは少しもないことだ。なぜだろう。これは個人的な感想かもしれないが、老いぼれた親父にだめ押しをするかのように「そのはげ頭はどうした!ざまあねえな」などという意味合いで罵るような気持ちは含まれてはいないように感じる。それは、僕が「親父」だからか。
 いろいろな意味で軽く揶揄しているというのが正解かもしれない。恐らく、揶揄しても大丈夫な存在だと思っているからこその「親父のはげ頭」という歌詞なのであろう。その大丈夫であるという意味合いは、揶揄しても何ら変わることない親父の愛、そしてその愛に裏打ちされた威厳がそこにはあったということにしておこうか。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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