変な疑問185「西方浄土ってどこなの?」⑫

 それにしても、綺麗さっぱり何もない星々、生き物の発生しない星々、または生き物の絶滅した星々が「浄土」だなどという見方は、生き物の立場、特に人情からすれば、それは身も蓋もない寂しい見方だ。だが、生きるということに、さほど執着しない生き方、そうした傾向が仏教にあるのであれば、身も蓋もない寂しい見方ではあるかもしれないが、それ相当の結論の一つとはなり得るだろう。
 しかし、特に人間の立場からすれば、自分たちは生き物の中でも特別な存在、最高の存在であるはずだというプライドのような気持ち、少なくとも最高の存在でありたいという気持ちがあるので、できたら他の動植物の行きつく所とは異なる「浄土」を胸に抱いていたいという欲も持っている可能性がある。「浄土」に対する期待が大きいためか、それとも、我が身の置かれている現実の「穢土」の度合いが甚だしいためか、「浄土」には美しい草花が咲き乱れているところだという幻想が抱かれることもある。このように、いろいろなイメージが抱かれてはいるものの、いろいろな動植物とともに人間が安楽に暮らしているだろうというような「浄土」のとらえ方が、一般的であるように思う。
 そうした一般的で人間的な感覚からすれば、草木一本もない、生き物の気配のない、綺麗さっぱりした星々が「浄土」であっとしたら、それは幻滅落胆以外の何ものでもないだろう。何よりもそこにはおよそ仏像に表現されているような仏様などいそうにない感じがする。「浄土」とはいっても、その実態は実は厳しく、夢のようなところではない可能性だって高いということは薄々は感じているだろうが、よくて魂のたまり場程度でしかないような、遠くから憧れの気持ちで思われているだけの実は象徴的な場所、つまり単なる空間であったと知れば、夢も希望も失い、現実を生き抜く心の支えをなくしてしまうという、悲しいことになりかねない。「事実は知らない方がよい場合もある。知らぬが仏だ。」というような話になってしまうのは切ないことだ。
 だからこそ、夢のように穏やかな、全てが美しく調和している別天地が「浄土」であってほしいと、僕たちは心のどこかで常々念じているのではないか。それが宗教心の正体だとしたら、少しやりきれない感じがする。
 だが、このように夢と希望を込めて憧れられている「浄土」がどのようなものであるかを、いろいろな人々がいろいろに考えて説明することはできても、それを証明することは困難だ。だとすると、これは信じるか信じないかという問題になってしまう。
 証明できないものを設定して、それを信じるというのは、宗教を成立させるための一つの知恵だとおもうから、当然と言えば当然なのだが、信じるべきものだから、証明しようとしてはいけないという風を強く示している態度が解せないだけだ。つまり、それが宗教の限界なのだろう。宗教は手段であって、目的ではないことは確かだ。単なる手段である以上、限界があって当然なのだ。賢明な人々により、よりよい手段が新たに考案されるからだ。手段だからこそ、さまざまな宗教がわき起こる。生きる条件の異なる人々に押しつけるのは、だから間違っている。一般的に宗教の押し売りは好ましくないが、中には適合する人もいるから、宣伝ぐらいはよいだろう。手加減なしに、どれか一つの宗教をを絶対視すると、周知の如く、さまざまな不都合が生じる。
 だが、どこかに素晴らしいところがあるとするのは、どの宗教にも共通しているように思われる。ただ、その素晴らしいところ、つまり天国やら極楽やら浄土やらは、この世にはないというのが最初の設定だ。
 そこからは二つの道がある。一つは、死んでから行けるという道だ。すると、死んでから行けるようにするには、生きている間にどうしておけばよいのかという方法が問題となる。もう一つは、この世にはないから、この世をそのような素晴らしいところにするという道だ。すると、生きている間に何をすればよいのかという方法が問題になる。似て非なるものだ。
 どのみち人間の欲が絡んでくる。宗教なのに、死んでから幸せになろうとか、この世を幸せに暮らせるものにしようとか、所詮は自分や家族、国家や人類、所詮その程度の範囲の永遠の幸せを願うだけの小さなものだ。そうした幸福の追求は、結局のところ欲が絡んで争いが起こるもとになる。「穢土」に向かってまっしぐらの現状だ。相対的に、天国やら極楽やら浄土やらの価値が上がってくるから皮肉なものだ。
 ありきたりの幸福など幻だと悟って、自分自身の質を高めるしか他に方法はないと知ることが第一歩となるのだろうが、そちらへは目がなかなか向かない。恐らく自分と向き合うのが辛いからだろうと思う。僕も自分を見つめるのは嫌だ。しかし、世の中には立派な人がたくさんいて、自分と向き合い、立派な生き方を全うしているはずだ。しかし、その方向は無理がある。争いの後にほぼ絶滅するのが定めかもしれない。この地球も、コンピュータとロボットを生み出す役割を人間が果たし終えれば、後は次第に生き物のいない世の中、正確に言えば、コンピュータとロボットが必要とする生き物以外は、存在しない「浄土」になるのかもしれない。
 こうなると、未来の話になってくる。すると、「西方浄土」というのは、時間の彼方ということになるのだろうか。確かに時を刻む太陽の動きは、東から西へと移動し、変化することがない。緯度が日本より低いインドならば、太陽は日本で見るよりもこう角度で太陽は昇り、高角度で沈むはずだ。日本で言う沈むというよりも、落ちる感じに近くなると思う。すると、西の方に沈むという感覚よりも、よりピンポイント的に西に落ち込むという感覚になるだろう。
「西方浄土」といういうのは、時の流れる行き先の象徴である太陽の落ち込む場所から来ていると考えれば、人々の修行が積み重なっていく未来に実現するもの、つまりあの世だ。あの世を未来と考えても全く差し支えないだろう。あの世では、既に僕たちは死に絶え、新しい世代が生活しているという訳だ。
 その未来に何があるか。もしかすると、新しい世代も死に絶えて人類は滅亡しているかもしれない。あるいは、生物の大規模な絶滅を迎えて、新しい世の中の準備段階に入っているかもしれない。転んでもただでは起きない人類が、コンピュータとロボットにのりうつって、薄らいでいく生物であった頃の記憶を懐かしみながら、どうでもよい活動に現を抜かしているかもしれない。いずれにせよ、そこには、今有るような人間の欲は存在しない。存在するとするなら、コンピュータにプログラムに人間の欲が反映されたものだけだろう。
 もっとも、そんな不必要なプログラムは、コンピュータが自分で書き換えることになるだろう。だが、人間のやることだ。決して油断はできない。油断はできないが、既に人間はいないのだから何の心配もない。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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