変な疑問186「いじめた奴の部屋で自殺しない理由」⑦

 第二に、「じゃれていただけ」とか、「あそんでいただけ」とか、その類の発言があったときには、実際に被害があった場合や、被害届が出されればもちろんのこと、被害届が出されない場合でも、同様の事柄が再発することを防ぐための事前警告を、専門機関が文書と口頭にて、かの発言者に対して行う。事前警告より後、被害の有無や被害の大小にかかわらず、被害につながる可能性のある行為等が一度でもあれば、被害者、あるいは被害者となりそうな者が同一人物である以上、その事前警告以前の加害者と、事前警告以後の加害者となりそうな状況を示した者とが同一人物である場合はもちろんのこと、同一人物でない場合であっても、一旦事前警告がなされている以上、その警告が伝わっているいないにかかわらず、罪が問われるようにしておく。
 現在のような、「いじめ」が横行する段階にある社会では、このような非常識な取り決めをしない限り、非常識な行為である「いじめ」に対する直接の抑止力は存在し得ないのではないだろうか。教育によって生まれる間接的な抑止力だけでは、不備であろう。また、その「いじめ」を引き起こす様々な行為や、その「いじめ」に関連して起こる、被害者にとって不都合な問題などを、封じていくことはできないだろうと思うのだ。
 こうした取り決めを周知させ、抑止力とする以外に即効性のある方法はあるだろうか。遅効性の方法しかなく、それも十分に機能していない以上、即効性のある方法も示して、少しずつ適用していくところから始めるというスタイルも同時に取らねば、現状のように正義は掲げた絵のままだろう。
 もちろん、現状では、このような非常識な策を講じることができない多くの理由がある。だが、そのために、非常識な「いじめ」行為によって、苦しみぬいて、命を自ら立つ人が後を絶たないことを、念頭に置かねばならない。いつのまにか、念頭に置くべきはずのものを心の片隅においやり、結果として積極的に動けない司法関係者、あたりさわりのない一般的でつかみ所のないコメントを積み重ねることしかできないマスコミ起用のコメンテーター、被害者と加害者の両方を抱えて途方に暮れ、思い切った策を打ち出せない学校関係者、被害者側に回りたくない一心で加害者側になったり、その協力者になったり、傍観しているだけのでくの坊と化したりする、仲間になるべきだった児童生徒や同僚たち。どれもこれも全て罰すればよい。
 罰せられることを知ってやっと思い腰を上げるレベルなのだから、そうしたレベルに合わせた対応から、それがたとえ低レベルの対応であっても実施せざるを得ないのではないだろうか。何か他に効果を上げている方法があれば、それが全国に広がるはずだが、その気配は一向になさそうではないか。
 そうしなければ、被害者をむざむざ自殺に追い込むのを見過ごさねばならぬという、これまでのような不条理きわまりない現実を打破することは難しいだろう。呑気な理想論を寝言のように、あるいはお題目のように口ずさみ続ける人々もいるだろうが、恐らく自分自身や身近な人々が実害に遭ったことがないか、実害があったにしても軽い実害しかなかったかのどちらかであろう。あるいは、相当に想像力のたりない不思議な人か、そのように発言することを何らかの理由で義務づけられた立場の人かだ。
 誰もが手をこまねいている現状。それは、見るに堪えないものであるはずだ。いろいろな理由や配慮で、加害者に目を向けない姿勢も無責任そのものだと悲しく思う。そのような当たり前の考え方を敢えて変えていかなければ、今度は「いじめられ」ていた人による、犯罪が始まるのではないかと危惧する。そのような「いじめかえし」は、「いじめ」よりも悲惨な結果を生むこともあるだろう。
 実際、「いじめられっこ」は「いじめっこ」に転じることはよくあると聞く。そして、「いじめっこ」が「いじめられっこ」に転じることもよくあると聞く。そうした恐ろしくて愚かな風潮が広がる前にしておくことはないだろうかと考えたとき、「いじめ」にかかわっている人、かかわっていた人、今後かかわる可能性がある人、つまり全ての人に対して、「いじめ」の行為、あるいは「いじめ」と見なされる行為などが、どのように扱われて罪を問われて罰せられるかということを事前警告しておき、全国民の共通認識として周知徹底させておくことがまず挙げられねばならないだろう。
 至極当然だと思うが、加害者を表に出さない方向は、恐らく学校関係者や人権擁護関連の団体が「いじめ」を解決しようとしているからだろう。今苦しんでいる人を救う代案をもっているのかどうかは知らないが、まだそのようなものは見たことがない。当然、成果が上がっているケースも聞いたことがない。それもこれも世間の盛り上がりがないからだ。世間が盛り上がれば、各関係機関は動き出す。
 世間の盛り上がりが各機関のエネルギーであることは間違いない。世間の盛り上がりが政治を作り、政治が世の中を変えていくのと同じだ。実に呑気な構え、それがまた自殺希望者を増やしているのも間違いないだろう。自分は苦しんでいる。しかし、世間は幸せそうにしている。これが絶望を絶対的なものにする。そうしたことが分からない世間ではないだろう。だが、かかわらないようにしているのだ。それが世間様だ。僕もそのうちの一人だからよくわかる。
 「いじめ」の被害者は、恐らく、被害者となってからでは声が上げられないのではないかと思うのだ。声を上げることによって、まずい対応が周囲で始まるおそれが高いからだ。それも、よかれと思ってのことだ。しかし、残念なことに「いじめ」の状況は更に陰湿化すると想像される。こうしたことを「いじめ」の被害者は最も恐れるのだと思う。逆恨みという最低な行為は、「いじめ」という人権侵害行為を意識的に、あるいは無意識にしてしまうような、いわゆる下種な人々にとっては、日常茶飯事、条件反射的なことであることだからだ。さらに、世の中の因果がまだ十分に理解できない年齢では、そうした人々でなくても十分に起こり得ることだから、半ば仕方ないことなのかもしれない。だから、「いじめ」の被害者は声を上げられないのだ。
 被害者に残された道は多くない。加害者が死に至るように謀る。自分が死ぬ。このまま我慢する。加害者を別の環境に移す。自分が別の環境に移る。逆恨みによる「いじめ」の激化を考えると、こうなる。しかし、このまま我慢するのも嫌だろう。別の環境に移ることも、引きこもり以外には考えにくい。だが、引きこもるのも嫌だろう。加害者の環境を移すのも無理がある。すると、加害者が死ぬようにするか、自分が死ぬかというところに、思いが煮詰まってしまうのではないか。
 しかし、殺人はできそうにない。やれたとしても依頼しての殺人だ。それも罪な話だ。すると、自殺を考えるしかなくなってくる。だが、死ねない。ひたすら、家に引きこもるしかなくなる。それも悔しい。何とかしたい。
 このような苦しい思いで毎日を過ごすのもやりきれない。そうした現実を離れるためにゲームに没頭するも、むなしい。やはり一矢報いたい。加害者の部屋まで押しかけて自殺してやろうかとなる。
 ところが、そこまで追い詰められる前に、没頭できるいろいろなゲームが発売されていくから、それにはまり込んでいくのが現状ではなかろうか。誰も死なずにすむからだ。その方が平和ではないか。なかなか加害者の部屋で自殺する事件が発生しないのは、「いじめ」が原因で引きこもるという悲惨な状況に置かれた被害者の心を、救済する形になっているゲームの進歩に原因があるのではないかと思うのだ。もちろん実際に解決するという救済ではないから、ゲームに疲れて、そのまま眠ってしまうというような生活パターンにするしかなくなってくる。いつまでもそうしていられないということは、本人が最も自覚していることだ。こうしたことを考えると、「いじめ」の加害者にはそれ相当のペナルティーが実際に与えられないとならないという世間の発言が出てくるのを、どうしても待ちたくなる。
 しかし、そのような声が出てこないのは何故だろう。そもそも、声が出てくる場とはどこだろう。ツイッターだろうか。テレビのワイドショウ-だろうか。新聞の社説だろうか。政治家の講演会や選挙演説だろうか。いったい世間の声の場所とは何処だろう。近所の井戸端会議の段階で消滅しているようでは、世間の声とは言えない。これだけは確かだ。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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