変な疑問188「人と植物と動物、何を殺したら偉くなった?」

 かなり語弊はあるが「野心的な人殺し集団」、特に戦国時代の武士だが、代々人を殺し続け、自ら最も幅をきかせられるような、自分たちに都合のよい江戸時代という世の中を作り上げていった。その戦国時代から江戸時代初期にかけての武士たち。野心を遂げた後はどうだったか。
 その一方で、代々動物を殺し続け、皮を剥いで革製品を作るなどしていた、これもかなり語弊はあるが「生活のために、やむを得ず動物の命を奪わざるを得なかった集団」である穢多がいる。この穢多といういわれのない差別を受けてきた集団。明治時代の解放令後もいまだに差別を受けるという理不尽な目に遭っている。
 「職業に貴賎なし」というが、現状がそうではないから生み出された言葉だろう。職業自体に貴賎などないはずなのだが、どうしたわけか心の中では貴賎意識を持ってしまうようだ。そうした浅まし心根を人間は持っているようだ。
 貴賎の分かれ目は収入の多少ではない。そして、人のいやがる仕事を引き受けてくれるならば、尊敬されてよいはずなのだが、そうではないところに、人の心の仕組みの傾向があるようだ。
 さて、特に江戸時代では、身分制度的には大違い、両極端の武士と穢多。
 片や、罰として人の斬首したり、気分を害したからといて丸腰の人を斬り殺したり、何の因果か自分の腹を自ら切り裂き、色とりどりの内蔵をつかみ出して見せたりする、基本的には「人を殺す技術をもった集団」に属する武士が為しうる蛮行。もちろん、その武力が抑止力となって社会の秩序が保たれていると考えれば、その時代ではありがたい存在だ。表裏一体というわけだ。
 裏の面が出てしまうのは、天下が統一され、具体的な行動を示す敵が、一応は形の上ではいなくなったから、その刃をいろいろなところに向けることになったからではないか。また、実際の刃でなければ、その刃で勝ち取るはずだったものを、身分上の某かのもの、その他のもので実現しようという方向に向いていったからではないかと想像する。
 片や、人々が嫌がる仕事を引き受け、人々の生活に必要な様々な品物を製作し続ける「生活のために、やむを得ず動物の命を奪わざるをえなかった集団」に属する穢多が為すところの生活行動。
 嫌がる仕事を市中で行うわけにはいかない。自然と辺鄙なところに住むことになる。情報の格差が生まれ、文化の格差が生まれ、身分の格差が生まれる。これは差別の根本的な条件だだと思う。現在でも、都会に住む人は田舎に住む人を下に見る傾向があるだろう。
 田舎の人が生産したものを食しているにもかかわらずだ。土を触り、肥料をまき、薬品をまき、日に照らされて汗を流す仕事。それを恐らくは、口では大変ですねと言いながら、実は誰でもできるような仕事、汚い仕事と見てしまう意識があるからだろう。世が世なら、食した後の始末、糞便を回収する業者も最下層と見なされていたはずだ。
 地道なものよりも、見かけがどんどん新しくなっていくものほうが、何か進歩している感じを受けるからだろう。そこに焦点化すれば、確かに都会の方が上に見える。流行するもののほうが流行する頻度の分だけ生み出されるものが多いことも確かだ。だが、それは無くてもよいものである可能性が高そうだ。
 農業は植物を相手にする。稲刈りで稲の叫び声は聞こえない。脱穀で血飛沫は飛ばない。もしその二つがあったら、士農工商、穢多非人ではなく、農が最下位になっただろう。動物よりも圧倒的な分量の血が流れるからだ。叫び声も地域中に響き渡ることだろう。つまり、更に辺鄙なところに追いやられたはずだ。動物が相手か植物が相手かで、随分と異なる歴史をたどるものだ。
 このような差別をされながらも、物作りに精を出し、その技術力で人々の生活に寄与してきた穢多たちが最下級層のままで血をつなぎ、一方、人殺しの技術に日夜磨きをかけ、その軍事力を背景とした政治力で人々の生活に寄与し続けた武士たちが上級層のまま血をつないできた。これは何か変であろう。穢れた仕事というならば、人を殺す方が圧倒的に穢れていよう。
 確かに、武士は世の中を上から、領民の生活ためと言いながら自分たちの生活の安泰のために、領民を支配した。そのために、血を流すことの可能な刀を携帯して闊歩しただろう。江戸時代では「斬り捨て御免」とか「無礼討ち」という言葉まで流布させた。武器の保有、そして言葉による完全な威嚇だ。裏を返せば、殺せるのに殺さないというところに高い評価をしかねない、高慢な集団だと言えなくもない。
 穢多は下から、品物で一般人の生活を支え続けた。代々の家柄ということもあるが、そのために人の嫌がる仕事に従事した。つまり、動物を死に至らしめ、解体して血を流した。そのために、地理的に分離され、追いやられたようなところに住まわるしかなかったに違いない。それが代々続くのだ。差別されることに対して疑問を持ちながらも、昔からそうなのだからと諦めている集団、もしくは諦めているという自覚もなかったかもしれない集団。そして、自分たちの技術にささやかな誇りを持って、それを支えに生きている健気な集団だと言えなくもない。
 武士と穢多の共通項は血だ。血と命がシンボルだ。そして、生まれながらの家柄だということも共通項としてある。もしかすると、どちらも後ろ指をさされていた。
 武士は、過去には人を殺すという最も穢れた仕事に就いていた。その名残で、いろいろな理由を持たせて、武器を常時携帯している。特に帯に差した大小の刀は威嚇的だ。抜きざまに相手を斬りつける刃の向きになっている。貴族的な太刀の装着方向とは逆だ。そこに、より実践的な、つまり、はしたない出で立ちをせざるを得ない、武士の低さが見受けられるとも言えなくはない。
 そうした穢れ多い武士の仕事は、逆に尊敬されて良いはずだ。自らの命をもって奉仕するのだから、崇高ですらある。そこが穢多との微妙な差なのだろう。生活のため、無抵抗の動物を殺めざるを得ない穢多。もう生活のためではないのだが、事と次第によっては人を殺めざるを得ない武士。その差は、やはり大きいと見るしかなさそうだ。
 このように、見方を少し変えただけで、全く別のものが紙一重の存在であるように感じられたり、逆に、紙一重のものが全く別の存在であるように感じられたりするのは、恐ろしいことだ。
 こうなると、あるものに対してある見方をしてきた理由を、敢えて一度自分自身に問うてみる必要が出てくる。ただ、もしかすると、その作業には少し勇気がいるかもしれない。通常に生活をしている限り、見方を変えにくいというのが一般的であるというのは、そういうことだろうと思う。
 つまり、勇気がいるのは、見直しをすることで、自分の思考はおろか、存在価値までも根底から崩してしまうおそれがないとも限らないからだ。場合によっては、何か事を起こす必要が生じ、それによって面倒なことになる可能性は限りなく高いからだ。そして何よりも、そうしたことを受け入れることを承服できるかという、人としての器を試されることになるからだ。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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