すべては「まぼろし」という仏教の教えは、現代先端科学に通じるものがあるようだが、仏教の結論は思索の結果とは言え、結局は直感によるところが大きい。結論を得るまでの手法が科学的ではなくても、役に立てばよいのだ。
科学のほうは遅々として進まない。証拠集めのための実験と観察に時間がかかるのだから、遅ければ遅い分だけ、慎重に真理を追求し、謎を解明しているということの証拠だとも言えそうだ。もちろん、解明すべき事柄が科学の進歩とともに飛躍的な増加を見せるであろうから、そうしたことにも原因があるだろう。
全六百巻という大般若経のダイジェスト版であるという、般若心経は、読めば読むほどに現実はまぼろしかと思い知らされる感じがする。
読み込むと言えば、それも「まぼろし」を組み上げるプロセスであるように思う。その作業は、読んだイメージを意味あるものとしてパズルのようにつなぎ合わせていくことだ。その結果、名付けられることの可能な、一つの形となったとき、読めたという自覚にたどり着く。自分なりに読解したということ、つまり自分なりに「まぼろし」を組み上げたということだ。それは文章化しないと、文字通り「まぼろし」のごとく消えてしまう。
読んだ後に感想を話し合えば、「まぼろし」同士が絡み合って、より立体的で肉付きのよい「まぼろし」が出現するだろう。どうせ「まぼろし」だから、次に読んだときには変化して形を変えていく。だから、「まぼろし」だとも言えそうだ。いろいろな「まぼろし」をかけあわせて、何か新しい「まぼろし」ができあがれば、それはまた素晴らしいと思う。
頭の中のどこかあちこちに引っかかっている、切れ切れのイメージのままのものを、放置しておくのは危険ですらある。知性のフィルターを通して、正しいと評価されそうなものを幾種類も幾種類もサンプルのように組み上げておき、その時々に都合のよい「まぼろし」を即座に手段や作戦として活用できるようにしておけばよいのだ。その準備は、積み木のように楽しい作業だろうと思う。
種類さえ多ければ、時代の流れ、人生の流れの中では、その内のどれかが、役立つはずだ。作戦といえば大仰なので、心の準備と言えばよいだろうか。だから、兎にも角にも、いろいろな種類の「まぼろし」を「まぼろし」として可能な限り多く手中に収めておけるようにしたほうがよい。少しでは、現実の変化に対応しきれないからだ。特に年を取ると、臨機応変の対応が苦手になる人が多いと思う。
「まぼろし」だから、どうでもいいのではなく、「まぼろし」だから、どうにかしよう。そう考えないと人生はつまらない感じがする。「まぼろし」とは、自分なりの捉え方だ。世界の認知の仕方だ。だから、放置しておくのはもったいないのだ。
「まぼろし」を組み上げる傾向を感性というのかもしれない。だとすれば、感性を磨くということは、頭の中に引っかかっているイメージの破片を使って、「まぼろし」を組み上げるときの心構えを、自覚して見つめ直して考え抜くという作業になる。おもしろそうではないか。
そこへ他人がどう入り込むか。意図的な介入をどのように実現するか。防御システムがないと、あっさりと介入を許してしまう。これは恐ろしいことだ。善意の介入である教育を疎ましく感じるのは、防御システムの本能的な反射が起こるからだろう。教育は社会を意識させることが重要だ。社会を守るには、個人がある程度の犠牲を税金のように払うしかない。そのようにして成立させた社会の中で、個人が恩恵を被るという理屈も、反射には通用しないのだ。
逆に悪意ある介入は、その反射を意識して回避する介入となるから、防衛システムが麻痺させられた状態となり、逆に心地よい場合が多い。果たしてどのようにして麻痺させるのか。もちろん日常的な方法ばかりでなく、薬物の投与などの非日常的な方法もあるだろう。悪意が現実の形を取って成就するには、手段を選ばないはずだ。
もっとも、悪意によって実現した現実も「まぼろし」なのだから、平気な人は平気なのだが、嫌になる人は嫌になるだろう。具体例は目の前に山ほどある。平気でいられるか、嫌になってしまうか。「まぼろし」だと思ってしまえば、確かにストレスは軽減するかもしれないが、悪意は増長する。悪意は悪意だけに、「まぼろし」として放置するのではなく、「まぼろし」として何とかコントロールし返す努力が必要だ。
さて、何がどう「まぼろし」なのか。それが分からないという恐怖もあるが、恐怖自体も「まぼろし」だということになると、「まぼろし」のとらえ具合によっては、実は恐怖した方が都合の良い状況へ、恐怖という「まぼろし」なしに、つまりブレーキなしで突っ込むおそれもある。それはそれで恐怖だ。こうして、きりがない話になるのも「まぼろし」である証拠なのだろう。
伊右衛門はお岩さんの幻を見て、いろいろな人を斬ってしまう。規模は小さいが、似たり寄ったりのことを僕たちは毎日繰り返しているのかもしれない。何となくそう感じるようになった。幻であっても伊右衛門には現実だったのだ。
このように、幻のようにはっきりしないことを、いつものように綴っていると、僕の存在自体がますます幻に近づいていくだろう。それも目的だからよいのだけれど、消えそうで消えないのが幻の特徴の一つなら、その危うさはなかなかに面白いものだ。
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