恐怖シリーズ248「ドッペルゲンゲル現象」

 今は「ドッペルゲンガー」と呼ぶことが普通のようだが、僕が最初目にしたのは、「ドッペルゲンゲル」だった。「ガー」は英語風で、「ゲル」はドイツ語風だ。「ドッペル」はドイツ語、英語では「ダブル」だから、「ドッペルゲンガー」よりも、「ドッペルゲンゲル」のほうが、単語の前半と後半の一貫性があるように思う。
 自分の分身が見える現象が、「ドッペルゲンゲル現象」だ。「ドッペルゲンゲル」に出会ってしまうことは、単純に想像してもそれだけで恐ろしい。自分嫌いな人はもちろんのこと、自分好きな人であっても、敢えて自分を客観的に見つめることにより、自分嫌いに突然なるおそれがあるからだ。
 ビデオに撮った自分の所作を見るにつけ、嫌な気分になったり、がっかりしたりする人の方が多いのではないか。ベストショットなるものがあるとすれば、通常はベストではないということだ。ベストは一瞬だ。その一瞬以外の、ベストではないものを見続けることになるからだ。だから、決められた動作のダンスとか、決められたポーズとかを撮影することに逃げるのだろうと思う。
 写真に至っては必ずベストショットが選択されて保存される。そもそも、ベストショットを狙ってシャッターを切るし、撮影されるほうもそのつもりだ。だから日常的な表情ではない。現実ではあるが、現実から離れているものだ。だが、写真として固定された表情は、自分の容姿を象徴するものとして、掲示され続けるのだ。掲示されなくても、大事に保存され続ける。その継続性が現実から離れているものを現実化してしまう。撮られることを意識した写真や記念写真よりも、スナップ写真のほうが、その人の雰囲気がよく分かるのはそのためだ。スナップ写真や現物との比較によって、記念写真の現実が幻だったことが明らかにされてしまうのだ。お見合い写真などは、その最たるものだろう。
 そうしたビデオや写真の自分と、「ドッペルゲンゲル」とでは大きな違いがある。それは、時を同じくしているということだ。ドッペルゲンゲルも、もしかすると過去や未来の自分かもしれないが、自分が生きている時間と同じ時間のなかで動いているように見えることだ。そして、画面や印画紙に、電子データやインクとして変換されて、閉じ込められていないために、現実の生き物のように全く自由な存在に感じることだ。
 閉じ込められていればこその安心だ。記録された以上のことも、以下のこともしない。自分と同じ空間にいる、自由な存在としての「ドッペルゲンゲル」は、恐怖以外の何ものでもない。
 自分の自由意志とは別の意志で動くかもしれない自分。何かまずいことをしでかさないか。何かとんでもないことを話し始めないか。その言動の責任を自分のほうが負うことになりはしないか。何よりも、「ドッペルゲンゲル」が自分に何かを話しかけてくるのかが怖い。一体全体、何を目的に何を話しかけてくるのだろう。全く予想がつかないというわけではないが、それが最大の恐怖であることは間違いないだろう。それ以上の恐怖があるとすれば、文字通り不倶戴天の敵ということで、ふっと背後に現れて首を絞めてくるかもしれないということだ。あちらの「ドッペルゲンゲル」にとっては、こちらのほうが「ドッペルゲンゲル」かもしれないのだ。
 そんな恐怖も段階があるようだ。どうやら、最初は近くに存在するだけで、そのうちに同じ動作をまねしているように感じるらしい。それが周囲の人に目撃されるようになり、やがては自分とは違う場所に現れ、多くの他人からそのことを指摘されるようになるらしい。その先は、やはり「自殺」による生き残りか。「自殺」といっても、「ドッペルゲンゲル」のほうを殺すという意味だ。その勝負に勝つとは限らないのだが、勝つという幻想を抱くものだ。相手が完全な自分のコピーだとすれば、理論的には互角の勝負となるだろうから、不意打ちで命を狙うしかない。
 ところが、恐ろしいことに、命は一つかもしれないというおそれがある。姿は二人分でも命が一つということは、あり得ないことではない。本体と思われるほうが死亡したら、分身のほうも現れなくなった、ということなら命は一つであったという可能性が出てくる。分身である「ドッペルゲンゲル」が、現実世界への命の反映の仕方の一つであるとしたら、そうしたこともあるかもしれない。
 こうなると無闇に「ドッペルゲンゲル」と勝負をしようとか、不意打ちを食らわせようとかするのは得策ではなくなる。そうした博打は打たぬことだ。何とか出現しないように、出現の契機とか理由とかを分析して対策を立てるべきだろう。
 もしかすると、普通の人、つまり「ドッペルゲンゲル」のいない人は、何をどう意識するのかということもなく、本能的に対策を立てていたのと同様の行為を積み重ねてきているのかもしれない。そうした何らかの対策を結果として怠ってきた人に対して、「ドッペルゲンゲル」がしずしずと降臨なさるのかもしれない。考えにくいことだが、そのように予想した方が面白かろう。
 そのような「ドッペルゲンゲル」は、いつ出現していつ消えるのだろう。果たしてウルトラマンのように制限時間付きなのだろうか。もしかすると、幽霊のように出たり消えたりするのではなく、同じ空間に平気な顔をして常駐しているのかもしれない。常駐して生活しているとすれば、それはそれで多くの問題がある。
 まずは、戸籍の問題やセキュリティーの問題が生まれるだろう。さらに他人とコミュニケーションを取る可能性があるからだ。そうすると、単なる存在ではなく、人格を認めざるを得なくなる。それはややこしいことだ。会話をすることによって世界の中に行動が生まれる。その行動の結果が、本体のほうに影響を与えるからだ。出現したとしても、何とか無言でいてもらいたいものだ。
 無言であれば、「ねえ、この前の日曜日、どうして挨拶しても知らんふりしてたの?」などと、非難されるくらいだ。評価が落ち、不利な生活になっていっても、命までは取られまい。
 では、どうしよう。「ドッペルゲンゲル」が他人と話をし始める前に、出現の情報を得たら現場に急行し、先ずこちらから積極的に動いて話しかけることにしよう。先手必勝だ。返答がなければこちらの勝ちだ。返答があれば、それを糸口にして、己の存在の矛盾を自覚させるような対話に持ち込み、消滅させればよい。もちろん、消滅すればの話だ。
 だが、向こうから話しかけられるのだけは御免被りたい。向かい合うだけでも恐怖だ。口が開きかけただけで心臓が止まるかもしれない。
 僕が最初に「ドッペルゲンゲル現象」を知ったのは、各社の週刊少年漫画雑誌のどれかだ。怪奇現象特集のような感じで掲載されていたものの中の一つだ。「ドッペルゲンゲル現象」の他に「ゾンビ」の紹介もあったような気がする。
 記憶というものは恐ろしいもので、都合良くも悪くも必ずねじ曲がっていく。クローズアップしたり、他の記憶と結びついたりして、さらに変形していく。現実が塗り替えられていくのだから、それが恐ろしい。何人かで話し合っているうちに、グループの記憶なるものが生じ、グループであることを根拠として、確たる記憶として一人歩きしていくのだ。大人になったときのために、何でもノートに記録しておけばよかったと、今になって思う。
 その当時の少年向けの漫画雑誌は、漫画だけではなく、様々な情報を載せていた時代だ。床屋さんの待合スペースに各社の種少年漫画雑誌が置いてあり、散髪を待つ間に手当たり次第に一か月分を読むという、貧しい読書生活をしていたのだ。散髪にいくタイミングが悪いと処分されてしまっているので、連載漫画などは読みそびれた回も出てくる。それは想像の世界でストーリーをつなぎ、適当に整合性をつけるのだが、面倒といえば面倒な作業だった。その点、特集ものは読み切りなのでありがたい。しかも、幼い少年の世界を広げてくれるもので、大図解的なもの、大百科的なものなども、その新情報にわくわくしたものだった。
 その後、暫く忘れていた「ドッペルゲンゲル現象」だが、振り返ってみると、成人してから今日までに、「どこそこで見たよ。」とか、「どこそこにいたよね。」とかいう意味合いの発言を耳にすることが、意外と多かったことに気づく。
 極めつけは、警察から上司に電話が入ったことだ。何時から何時までの間、僕が職場にいたかどうかの問い合わせだ。アリバイの確認だ。本人に確認するのではなく、上司に確認するというのは、どういうことなのだろう。確かに僕はその間の記憶はあまりないのだが、上司は「仕事をしていましたよ。」と答えてくれたそうだ。自分の記憶が曖昧なのは困ったことだが、気の利いた返答をしてくれたのを感謝したものだ。警察もかなり不思議そうな感じで連絡してきたというから、出頭して事情を聞こうと思ったが、やぶ蛇になることをおそれ、思いとどまったことを覚えている。出頭の要請ではなかったのが幸いだ。恐らく、面倒なことになるのを、警察のほうで避けたのではないかという、上司のコメントは、僕を暫くの間びびらせていたものだ。
 その他、スーパーで見かけたとか、飲食店で見かけたとか、街で見かけたとか、全て身に覚えのないものばかりだ。普通の「ドッペルゲンゲル現象」は、もう一人の自分が見える現象だ。もちろん、他人が別の場所で見かける例もあるようだ。しかし、まさか僕にそんな奇妙な現象が起ころうはずもないと思う。しかし、考えてみれば、そうした現象が僕に起こらないという根拠もないのだから、もう何とかしてほしいと思う。
 ただ、これまでは僕を見かけたという発言が多いということを自覚していなかっただけだったのだ。当たり前のように聞いていたそれらの報告が、その頻度において、実は普通ではなかったようなのだ。これは、周囲の人々に聞いてみて、初めて分かったことだ。皆、そのようなことを言われたことは、ほとんどないと言うのだ。
 人の悪い冗談なのだろうか。だが、特定の人や特定のグループの人たちにだけ言われることではないので、悪意をもって裏で通じ合っていない以上は、悪い冗談とも思われない。それが長期間にわたるということも、悪い冗談である可能性を薄くしている。 では、あまりにもありふれた容貌なので、見間違えられやすいのか。それとも、たまたま僕が確認した周囲の人々に、そうした体験がなかっただけなのか。
 確かにありふれた容貌だ。だからなのか。「声をかけてくれればよかったのに。」と言うと、「そんな雰囲気ではなかった。」というような内容のことを言われることが多い。それはどうしてなのだろうか。幻でも見ているのだろうか。そんなこともあるまい。
 それよりも気になるのは、「ドッペルゲンゲル現象」が起きた後、自身の分身を見た本人が間もなく死んでしまうということだ。だが、僕の場合はかなり長期間、何十年にもわたって、「どこどこで見かけたよ」という報告を聞き続けているので、とうの昔に死んでいてよいはずだ。だが、死んでいない。したがって、「ドッペルゲンゲル」がいろいろと目撃されているということではないということになろう。ただ単に、似ている人がたくさんいるということだ。
 ただし、僕自身は見ていないので、だから生き延びているとすれば、いろいろな他人が見てきた「僕」は、実は「ドッペルゲンゲル」だったのかもしれないとも言えなくもない。だとすれば、「ドッペルゲンゲル」が気を遣って僕に遭遇しないようにしていてくれるのだと解釈し、よき「ドッペル」を持ったものだと感謝すべきなのかもしれない。
 もしかすると、「ドッペルゲンゲル」は、自分を他に探そう探そうとしている人が、何ものかを自分の姿として見てしまうのではなかろうか。自分が見たものを、自分だと思いたいから、自分の幻を見ることになるのだ。
 つまり、自分は自分ではなく他人だと思い込みたいような状況に立たされた人の話ということになる。その幻が「ドッペルゲンゲル」であるという可能性もありはしないかと思うのだ。
 何もないところに自分の幻を見るという深刻な状態もあるのかもしれないが、大抵は自分に似た人が自分に見えるのではないだろうか。脳のほうで目に入った情報を書き換えるぐらいのことはありそうだ。脳は自分を守るためには何でもしそうではないか。  自分を探している自分は、自分を救おうとしている誰か他の人、つまり自分ではないと感じているのかもしれない。そのほうが心が楽になるからだ。何しろ自分ではないのだから。
 だが現実には、自分を探して救ってくれるというような奇特な他人はいない。そうした人がいれば既に心は救われ、「ドッペルゲンゲル」など生じさせることもないだろう。解決できない苦境に陥っていれば、見慣れた自分の姿を幻として見ることぐらいあるかもしれない。怖いと思えば枯れススキだってお化けに見えるぐらいだから、自分の姿なら幻にしてしまうなんてお手の物だと思うのだ。脳というのはそのくらいのことは朝飯前でやるに違いない。
 苦境にいるから、そのストレスで免疫も落ち、少しのことで死にやすくなる。そのように考えれば、筋は通りそうだ。だが、その幻は自分にしか見えないものだ。僕のように、他人ばかりが見るものではない。根本的に違う成り立ちの「ドッペルゲンゲル」に違いない。もしくは、単なる他人のそら似だ。そら似にしては出現率が高いのが気にはなるけれど。まだ僕が死んでないところをみると、そう思っていた方がよさそうだ。
 過去の例を調べてみると、フランス人の教師で20回も職場を変わった女性の話を見つけた。エミリー・サジェだ。彼女が職場を変わらざるを得なかったのは、姿がダブってしまい、生徒や他の教師たちが騒ぐからだ。最初はダブって見え、そのうち別の場所にいるようになったという。
 僕の場合は、繰り返すが、とても似ている人が何人もいるという感じだ。それは、僕自身は僕の分身かもしれない存在にお目にかかったことがないという事実が、「ドッペルゲンゲル現象」は起きていないということの証拠だ。なぜなら、通常ならば自分で自分の姿を見る現象が、「ドッペルゲンゲル現象」だからだ。
 ところが、「ドッペルゲンゲル現象」も年を経ると、先に述べたように、別の所に現れるようになるようなのだ。これがイレギュラーで逆順のものもあったとすると、今後僕は自分のそばに自分を見るようになるのかもしれない。そうでなければ、初期の段階で、自分の「ドッペルゲンゲル」の出現に気づかず、よそに出現するようになってから、いろいろな人に目撃されるようになり、その報告を自分が受けて、やっと「ドッペルゲンゲル」らしきものの存在に気づき、報告者とともに不思議がっていた、ということなのだろう。
 ただ、一度だけ、僕の前で僕が仕事をしている感覚になったことはある。僕の前方20センチか30センチほどに半透明よりももっと透明に近い僕が、浮き出た感じになって勝手に仕事をしているのだ。その仕事ぶりは、通常の僕の仕事ぶりと変わらないものだった。もしかすると、通常よりも流暢的確だったかもしれない。不思議なことに根本的な意識は、後ろ側に位置している僕のほうにあった。後ろ側にいて、前方に少し浮き出た、限りなく透明に近い自分を観察し、自分の代わりにオートマチックに仕事をしている自分に感心していたのだ。
 仕事で喋っているのは前方の僕で、後ろの実態の僕は観察しているだけなのだ。時間にして5分か6分程度という短い時間だった。しかし、単に疲労していただけだとは思う。その時の視野はやや狭く、少し光が眩しかったように思う。あまりにも透明だから「ドッペルゲンゲル現象」とは言えないだろうとは思う。周囲からも、前方に浮き出たかなり透明な僕は見えていないようだった。幸いなことに、いくら疲労していたとしても、似たようなことは後にも先にもなく、その一度だけであった。逆に言うと、疲労が原因ではなかったという結論に至りそうなので、ここまでにしておこう。
 これが「ドッペルゲンゲル現象」の前兆であるかもしれないと考えると恐ろしいが、あれから20年は少なくとも経過している。だから、大丈夫だろう。あれが僕の魂であるとするならば、年齢の経過とともに魂が落ち着いたということかもしれない。魂が調子に乗ったのか、他の理由なのか分からないが、とにかく前方にずれて出現したのだろうか。短時間とは言え、勤労意欲の高い魂であることよ思う。ただ、数分という短時間の仕事だったから、賃金はほぼない。ボランティアということで許してもらおうと思う。20年ほど未払いだ。一年過ぎたら請求がない限りは時効かなとも思う。しかし、実態の僕は観察していただけで、他に何もしていなかったのだから、結局未払いでもよいのだけれど。まあ、他人のそら似ではあり得ず、確実に自分の何かだったのだから、賃金のことなど関係ないと言えば関係ないのだが。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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