恐怖シリーズ249「バラエティーに富む死刑」①

 ニーズに合わないものは、価値が低い。価値が低いどころか場合によっては害悪となる。
 ニーズに合わせた死刑というものもあってよいかもしれない。それがないのは、大きな問題点があるからだろう。死刑自体が問題視されてもいる。死刑が必要な時代は過ぎ去ったのかもしれないが、そのような大雑把な感覚で、微妙な死刑の問題を論じること自体に大きな問題があるのは、誰でも気づいているはずだ。
 さて、誰のニーズかというと、まずは殺人事件の被害者の遺族、遺族が存在しないほどの大量殺戮であれば、被害者の知人たちだ。そして、加害者のニーズだ。これに社会のニーズも絡むだろう。
 ただ、社会の場合は、より多面性を持っているので、統一されたニーズを浮き彫りにはできまい。幼稚だが数の論理が横行するのを容認することになってしまう。だからこそ、専門機関が裁いて、死刑判決を出す意味がある。しかし、具体的な方法については、日本の場合は絞首刑となっている。その他、銃によるもの、薬物によるもの、電気椅子によるもの等々、国によって方法は異なるが、それらの死刑方法には、その方法が選択された根拠というものがそれぞれあるはずだ。
 その根拠が時代の流れによって左右されるようなものである場合には、再検討されて方法が変わることもあるだろう。最たるものは、死刑という名を使わない死刑、つまり終身刑のようなものが採用されることもある。単純に費用がかからないためとか、後始末がしやすいためとか、残虐性が比較的薄いためとか、確実性が高いためとか、いろいろな理由があるだろう。
 これまで被害者側のニーズに応える形式を取ってこなかったのは、極めて残虐な死刑方法が提案されるからだろう。その残虐さを非難するのは、社会的なモラルというようなものに代表されるようなものだ。しかし、被害者側にとっては、殺人という社会的なモラルを破った加害者に対しては、収監の待遇はともかくとして、処刑方法に社会的モラルを適応するのは論外だ。この被害者側の論理を無視するのが正義なら、死刑だろうが、終身刑だろうが、その他諸々の処罰なども不要ではないか。
 とにもかくにも、殺人事件の被害者側の人々を目の前にして、死刑廃止を唱える論法を少なくとも僕は持たない。死刑廃止論者は、なぜか被害者の遺族の前では沈黙する。それはなぜだろう。何か後ろめたさを感じるからではないのか。後ろめたい気持ちにさせる論理には何か嘘があるからだ。嘘でなければ、欠陥があるからだ。それを認めたくないゆえの沈黙だろうと言われてもしかたないだろう。世の中には不思議なことがよくあるが、不思議というよりも、これは珍妙なことだ。よく、被害者側の人が死刑廃止論者になった話が持ち出されるが、余程ねじ曲げて自分を納得することのできた例外中の例外の人だ。
 それは、長い年月の果てにそのように変わらざる得ないような、深刻な悲しみを、反対表現としての死刑廃止の訴えによって、合理化してのものであろう。または、現行の制度では、死刑を望んでも無理だと分かったとき、それでは死刑を主張すれば主張するほど、自分の心も救うことができなくなると諦め、どこまでも傷ついていく心を捨てるには、逆に死刑廃止を主張し始めるのだ。そのような運動や何かに対する行動を起こして打ち込まねば、とても正常な精神生活を送れないような、酷い悲しみを受けたのだ。あるいは、まさかとは思うが、殺された被害者に、もともとあまり愛情をかけてこなかった人なのであろうか。少なくともそうではないとは信じる。

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