恐怖シリーズ250「根情」を抹殺する判断

 「根性」は「根性がないから負けた」のように使う。これは日常生活でよく使う。それ以外の「こんじょう」は「今生の別れ」の「今生」ぐらいだ。この「今生」は、「今生の別れ」という表現にしかほぼ現代人は使わない。だから、つい「根情」は「根性」の間違いだと判定してしまう。
 これは恐ろしいことだ。ワープロソフトで「こんじょう」と入力しても「根情」という変換の候補が見当たらないという程度で、「根性」を誤って「根情」としてしまったのだろうと推論するのだ。推論するのは大事なことだが、大雑把な推論では困る。その大雑把な推論を、間尺に合わないということで受け入れてしまうのは、ある意味必要なことだ。
 しかし、いつでもそうした姿勢で言葉に接していると、言葉の貧困化を招くことになりかねない。たとえば、「根性」と「根情」はアクセントが異なり、意味も異なるということを知れば、ひとつ内的世界が広がるというものだ。
 何でもネットで調べてしまうというのは駄目な方法の典型だ。しかし、大方ネットで調べる人が増えたようなので、「根情」を例として挙げてみるのだが、ネットだけでも、すぐに「根情」の意味を調べることができる。便利な世の中になったものだ。
 白居易の詩論に、「詩者根情苗言・・・」とある。詩の四要素として「情、言、聲、義」を挙げて説明しているのだが、その一つの「情」これを植物の「根」にたとえ、「情を根とし、言を苗とし、・・・」と続ける。
 根底には「情」、つまり感情があり、それが「苗」つまり「葉」として目に見えるものとなって「言葉」となる。さらに、「華」として「聲」、つまり「声」となって「訴え」となり、「實(実)」として「義」、つまり「思想」や「テーマ」を掲げる。およそこうしたことだろう。
 これを詩の話にとどめておくのは芸がないというものだ。「根情」は、「行動の原動力となる初発の情動」「日常的な気づきに基づいて育まれた感性」などと捉えて、スローガンにするのもよいだろう。これも温故知新というやつだろうか。
 少なくとも「根性」だけをスローガンにして喜んでいてもしかたがない。それは方法ではあるかもしれないが、「根情」のような「発想」ではないからだ。ただ「根情」を単独で掲げても駄目だろう。「日本語知らないの?」と思われるだけだ。皆が使うようになって初めて言葉としての価値が出てくるのだから、まずは理解されやすいように、スローガンらしい短文に組み込む必要があるだろう。また、「根性と根情の違い」などというスピーチを事あるごとにする必要もあるだろう。使っている間に、適切な意味合いになっていくだろうと思う。
 ここで改めて、一般的な常識による安易な正誤の判断が、新しい展開の芽を摘むことの恐怖を強調したい。何事も安易に間違いだと判断して抹殺してしまうのではなく、正しさの可能性を探ることが大切だ。有効な意味を生み出して活用することの重要性は誰もが感じているはずだ。それは、立派なものが無残に陳腐化していくことを防ぐための、最も経済的な方法だと思う。
 

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