恐怖シリーズ254「小学2年生をかばう発言」

 小学2年生がバットで二十代女性の頭部を殴打し、障害を与えた事件。これも恐怖と言えば恐怖だが、本当の恐怖は、その小学生をかばう発言をする人がいることだ。同じような行為を幼少期に犯した経験があるのだろうか。そんなわけはあるまいが、まさか、それを正統化するためにも、この小学2年生をかばって、「追い詰めるな」と発言したのであれば、噴飯ものだ。まあ、これも覚えがないことでもないので、その恥ずかしさ、あとになってわかった心の底が今になってみると透けて見えるのだ。
 「罪は罪だ」年齢による差別があってはならない。年齢によって被害状況が変わるわけではない。心の痛み、身体の損傷が変わるわけではない。どう裁いて処罰するかは、そのことと全く別問題だ。罪は罪なのだ。罰せられても、罰せられなくても、罪は罪なのだ。法律上どうあれ、被害者が許そうがどうしようが、罪に変わりはないのだ。これを罪と感じる心に育っているかどうかが、人か人でなしかの違いだ。人でなしなら、まっとうな人となるようなことを、他の人とは別の体験をさせなくてはならない。それを怠ることが大罪だ。
 児童館での学童保育。そこで野球ができないのを逆恨みしての殴打だという。小学2年生ならバットで人の頭部を殴打することが善か悪かの区別は十分につく。たとえ命令されてもできない行為だ。大人でもできないことだ。なおさら子供であれば。しかも相手が大人、それも若い女性だ。そうであるにもかかわらず、それを断行したところに、大人以上の罪が認められる。それも頭部を殴打すれば、命の危険もあるということは、小学生の低学年でも理解しているはずだ。ましてや野球をやる少年であれば、その危険性は指導者か保護者かに十分指導されているはずだ。
 被害に遭った女性は、まともに仕事ができない身体となり、休職を余儀なくされている。完治は難しいとのことだ。将来の夢も潰されてしまった。この責任は誰が取るのか。保護者であろう。この少年は普段から乱暴な行為が目立っていたという。まずは保護者の監督責任が問われねばならない。被害者の生き地獄を償う者がいなくてはならないからだ。
 こうした事件に、「小学生を追い詰めるな」という発言がなされることは、どういうことだろう。追い詰めるのではなく、己の行為を見つめさせるということが罪を償うの第一歩だろう。それは追い詰めることではなく、正しく成長するためのプロセスだ。
 もしかすると、追い詰められたと感じることが、この少年には必要であるのかもしれない。彼の被害者が今後出ないためにもだ。すなわち、彼自身のためにということだ。暴力が続いていたということは、己を見つめることなく、不都合を全て他人のせいにしてしまう傾向にあるという可能性があるからだ。
 それにしても、将来の夢を絶たれた女性は、後遺症とともにどうやって生きていくのだろう。小学2年生の少年もすぐに青年になる。他人を不幸のどん底に陥れたという記憶を持ち続け、衝動を抑える努力をし続けてほしい。ただ、彼女はその少年を許すという発言をするだろう。許さねば復讐心で己が罪を犯すおそれがあるからだ。それは彼女を更に不幸にする。
 だから、それは偽りの許しだ。己を偽ることで、二重に救われない。生涯にわたり彼女は救われないということだ。救われるためには、めまいと難聴、気が狂いそうになるであろう、その後遺症を完治させる医療技術が必要だ。そして、得られるはずであった収入が回復されることだ。被害者である彼女が最終的に求めるものは、彼の反省の言葉、改心した姿ではない。だが、それにすがらざるを得ない状況に閉じ込められ続けるのだ。それを、何としよう。
 被害者を罵倒し、非難する発想はどこからきたか。弱い立場にあるのは、加害者の小学生ではない。頭部に狙いをすませてバットを振るう小学2年生の少年は、単なる小学生なら社会的弱者、守られるべき者だが、そのときの少年は無害の小学生ではなかった。そこを間違えてはいけない。一般化してよい場合と、してはいけない場合がある。
 たとえば、百人を惨殺した人がいたとする。「彼は生き物だ。生き物の命は尊い。だから、彼は死刑で命を奪われたり、終身刑で命の本来のあり方を損なったりするような罰を受けてはならない。」というおかしな論理と同じ発想だ。こうした不適切な一般化を堂々と持論の根底に置いて恥じない人たちがいることは確かだ。対象の特殊性を消し去り、一般論で物事を判断することが正義だと勘違いする人々だ。
 大人対子供という極端な一般化によってしか、「小学生を追い詰めるな」という発言は生まれない。児童相談所の扱いとなったことに対しての発言だが、この発言は児童相談所の存在も認めない発言だ。そこには、児童相談所の法的根拠を蔑ろにする発想がある。
 問題は、理不尽な理屈で障害を負わされ、完治の見込みのない障碍を背負わされ、たとえようのない症状に苦悶する、就業困難、生活困難に陥れられた二十代の女性が、これからも生きていかねばならないということだ。
 これも、弱い者を更に叩くという風潮によるものだろう。その風潮に安易に流され、心ない発言をする人物だけにはなりたくないものだ。この風潮が誰によって作られてきたかは、言わずもがなだ。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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