怪しい広辞苑260「権威は幻」

 もともと権威というものは幻なのかもしれないぞということが、「広辞苑第七版」の誤りの多さの指摘が報道されることで一般常識化する記念すべき年となった。
 予兆は「広辞苑第二版」からあったものの、昭和五十八年発行「広辞苑第三版」で「ヘパリン」を見出し語として載せるや、その物質の持つ作用を逆の内容で記述するという劣悪な間違いに、我が愛する広辞苑であるが故にさすがに放置できず、敬意を込めた訂正依頼文書を送付した。これに対して「岩波書店」広辞苑編集部は無視を決め込んだのが、広辞苑を読む契機となった。
 昭和の時代は、「広辞苑」は文豪が手放せない愛用の辞書という形で示され、権威づけられていった時代だった。だが、文豪は辞書の権威ではない。優れた文学作品を築き上げる天才的な作家が、なぜ文学の権威とされるかはわからないが、そこで生み出された権威が、その作家が愛用している辞書に伝染し、権威ある辞書だとさていくというのは、少し考えてみれば変な理屈だとわかる。
 変な理屈ではあるが、それが「権威」というものの正体を暗示しているように思われる。
 ちなみに、ある作家が、ある種の作品を書くのには適していたとしても、学生が勉学のために、あるいは一般人が社会生活や日常生活で利用する上で、その辞書が適しているとは限らないということもある。
 「広辞苑第七版」で様々な指摘が一般利用者から寄せられている。だが、それは十件未満だ。誤記と不適切な説明は膨大だ。新しく見出し語が約一万語増やしたが、平均して2頁に一つは指摘すべきところのある辞書だ。増えたページ数の半分の数は、恐らく訂正すべきところが新たに出てきそうだ。だからこそ「広辞苑」はわが子の如くかわいく思われるのだ。
 「広辞苑第五版」あたりから一件なり二件なり間違い等の指摘が話題となったが、全て一過性のものだ。岩波書店の姿勢は、ここ二十年ぐらいで従来の権威を誇示するかのような姿勢が少しずつ崩れ、利用者とともに成長しようと思うというところから、明確な謝罪にまで変化してきた。謙虚になってきたのだ。つまり、成長してきたのだ。
 ところが、そうした姿勢を示し、メディアが取り上げた「誤り」だけを、何らかの方法で修正したら、それで収拾した形となってしまうのがお決まりだった。実際には「広辞苑」が訂正すべき箇所は恐らく何千件という規模であると思われる。「広辞苑第七版」だけでなく、古い版も合わせて用いている利用者が多いはずなので、新版だけの誤りなどを見ていけばよいというわけではない。
 我が愛する広辞苑は、見出し語が多いところに魅力がある。だから、どんどん版を重ねるごとに雪だるま式に増やしていってくれれば、これほど喜ばしいことは内。それだけで購入する価値があるというものだ。謳い文句通りに国民的辞書であることは確かだが、だからといって最初から本当の意味で権威ある辞書はなかったはずだ。幻の権威づけが、利用者と出版社の両方によってなされたと思っている。もともと権威とはそういうものだろうとも思う。
 ところで、各分野の専門家にチェックをしてもらっているという、いつもの触れ込みなのだが、各分野の専門家の先生は、専門分野においては権威なのだが、残念ながら辞書の専門家ではない。言語表現、説明の専門家ではないのだ。つまり、意味がわからない者に対する理解が浅いのだ。恐らくは、ご自分が常に接している人々のレベルが平均的な国民のレベルではないことにお気づきではないのだろう。
 専門家である故に、専門の人々には当然のことが説明されないということだ。あるいは、日頃接している学者や、その専門分野を志そうというレベルに達している学生たちにとっての当然のレベルが、広辞苑を利用するところの一般的な国民のレベルと同等ではないということへの理解の欠如を自覚していないということだ。
 そうしたことによって、いくら専門分野の人々の執筆によるとは言っても、誤解が生じる言い方になってしまっているかもしれない確立は高くなるのではないかと思うのだ。専門家では当たり前の言い方が、一般人とは食い違っているかもしれない。そのあたりを話し合いながら、意味合いを確認しながらのチェックを果たしてしているのだろうか。利用するのは専門家ではなく、一般人なのだ。
 まだ問題はある。もしかするとだが、子供向け学習書や、社会人向け一般教養書などが、広辞苑を根拠に記述されているかもしれないということだ。広辞苑特有の大雑把な意味の解説、それは字数が少ない故なのだが、そうしたことによって、受取手による微妙な意味の違いが一般化されてしまうおそれがあるのだ。それは書籍という活字になったものに対して、ある種の「権威」を感じている我々の思い込みがそうさせるという効果も手伝うことになる。
 権威というものの幻性が、明確化されたという点では、今回の広辞苑のてんてこ舞いも、不幸中の幸いだったのかもしれない。「広辞苑第七版」の購入はもう少ししてから、つまり訂正がなされてからにしようと思う。
 記述内容のチェックはそれからということになる。気の長い話だが仕方ない。取り敢えず、ここまでに指摘してきた部分がどのように改善されているかは、早々に確認したい。もっとも、これまで目を通したのは「あ」、「い」、「う」の途中までだけれど。
 さて、権威というものは必要な幻だ。だが、幻だからといって価値がないわけではない。それは大きな価値を生む可能性をもっているからだ。逆に言えば、価値を生み出さない権威は、権威ではないということだ。
 とにかく、我が愛する広辞苑には、さらなる進化をしてもらい、最高の辞書になってもらわねば困るのだ。
 

 

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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