日々雑感362「電車の会話」

 「マスコミレベルはどうしてこんなに落ちたのか?」「視聴者とか購読者のレベルに合わせたからだろ。いくら何でも、レベルが落ちたのではなく、合わせているということだろ。落ちたのではなく、落とした。」「まあ、影響力がよかれ悪しかれ大きいだけに、そう信じたいところだね。だけど、合わせているうちに、気づいたら自分たちも変わってしまったという、落ちじゃないか?」「ある、ある。でも、そうした崩れ具合を何とか数値化しないと、年ごとの変化を表現できないね。」「それって、視聴率とは全く別の性格のものだから、新しく考えないと。」「逆に、これまでそうしたものがなかったことが、大問題だぞ。」「そもそも、マスコミのレベルって、マスコミの何のレベルだ?」「そりゃいろんなものがあるだろ。」・・・・・・・
 とある地域を旅行した時の電車内での若者の会話。学生服だから高校生だろう。だいたいこのような流れの二人の男子の会話が続いていったのだが、下車したので、どう展開したかわからずじまい。
 これまで電車で耳にする同年齢ぐらいの若者の会話は、「くそ何々」とか「やばくねぇ」とか、極めて短い、似通った二、三単語を吐くように言い合うものばかりだった。内容も何かにどう書いてあったとか、誰かがこう言っていたとか言うようなものが多く、それに対して「鬱陶しいね」とか「やばっ」とか「何とかならんのかい」とかつなげるだけで終了し、何の展開も見られないのが特徴だ。
 善意に解釈し、敢えて展開させない「ヤサシサ」によるものだとしてもよいが、それはそれでどうにも無理があるように思う。
 そうした会話の内容と展開の傾向は、地域性によるものなのかもしれない。あるいは、乗り合わせる電車が似通っているので、同じ学校の生徒が特有にもっている一種の雰囲気なのかもしれない。
 それらと比べたときには、ここの冒頭に紹介した会話が、いかにも上等であるかのように感じられてしまうのだ。そして、相手が話した内容を踏まえて発言がなされてることの重要さを改めて思いしらされるきっかけとなった。それは会話の根本的な基本だろう。
 この基本が守られている以上、会話の中での認識が深まり、いつかは表現も含めた行動化につながっていくだろう。大袈裟でも何でもなく、それは生きる方向を自ら切り拓いていく活動に他ならない。だから、今回耳にした会話は、たまたまこうしたものを聞くものに感じさせるものだったのかもしれないが、彼らは「つまらない毎日」とは縁のない存在となっていくはずだ。
 もちろん、もう一歩進んで、「爽やかな毎日」「手応えのある毎日」、そして「夢のある毎日」にまで自力で引き上げていくはずだ。そう実感した一時だった。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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