変な疑問195「パワハラの反対語」

 反対語を考えると、よく面白い発見をすることがある。
 よく見聞きする語句の反対語を考えるのだ。それが対になって示されているようであれば、健全な使われ方がされている可能性が高い。
 しかし、対照語も対義語も示されてない場合は、何らかの意図があって、あるいは何らかの勢いに流されて、一般庶民に目眩ましがかけられた状態、あるいは目眩ましがかった状態になっているおそれがある。
 最近よく見聞きする言葉の一つに「パワーハラスメント」という言葉がある。これは他の「ハラスメント」がそうであるように、「パワハラ」を感じる人がいてはじめて成り立つことだ。
 では、なぜ「パワハラ」と見なされる言動が生じたのだろう。自分の経験からしか言えないが、「ハラスメント」はそれを「ハラスメント」として感じるという経験をもってしか言えない性格のものだから仕方ない。
 たぶん自分の場合は、およそ五分五分の割合で「パワハラ」の言動を示す本人に原因があったように思う。残りの半分は「パワハラ」の言動を起こさせる原因を作った自分に原因があったということだ。
 これは言い換えると、「パワハラ」の反対をしていたということだ。それは、部下が上司の指示を忠実に守らなかったり、上司にあらぬ批判をしたり、サボタージュとも受けとれられるような行動をしたりすることに相当するものだ。
 上司が部下に対して「パワハラ」を行う可能性があるならば、部下が上司に対して「パワハラ」の反対の「ハラスメント」を行う可能性も十分にあるとみてよい。ただ、世間がそのどちらに光を当てて、マスコミがどのように広げるかというだけの問題があるということだ。
 往々にして所謂「パワハラ」を誘引する行為が、「パワハラ」を受ける側に継続していたことが無視されるのは仕方のないことだ。それは、「強きをくじき、弱きを助ける」という不平等の意識に基づく心理だ。その行為が実は強力な「ハラスメント」になっていることを視野に入れなければ、本当の意味での「パワハラ」問題の解決にはならないだろう。
 部下からの上司に対する様々な「ハラスメント」が、なぜ強力なものになるかと言えば、「多勢に無勢」の論理だ。上司の数よりも部下の数のほうが多いという単純な理屈だ。部下一人一人からぞれぞれ特有の「ハラスメント」になり得る要素を、日々不意に大量に受けとめて処理するという苦痛を、上司の立場にある者が、その限界を超えての経験を押しつけられ続けた結果、所謂「パワハラ」に結実して部下を脅かすという図式。少し振り返ってみれば、誰もが心当たりがあるだろう。
 そうした所謂「パワハラ」の反対の「ハラスメント」も、大きく括って「パワハラ」と言えるものではあろうが、どちらかに光が当てられて拡散される以上、二つを別々に扱うためにも、「パワハラ」の反対語がもしなければ、それを考え、「パワハラ」とセットで話題にしなくては、偏りの大きいおかしな話になってしまう。
 その反対語を、単に「逆パワハラ」とするのは語弊があるかもしれないが、その方が理解しやすく、定着するかもしれない。また、定着させるためには、事件性はなくとも例を挙げて示していかねばならないだろう。それは誰の仕事か。もちろんそれは決まっている。
 それを敢えてしないのは、何らかの目論見があってのことに違いない。でなければ、相当のうっかりさんか、何かを恐れて忖度をしているかのどちらかだろう。さあ、実際にはどうなんだろう。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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