恐怖シリーズ272「透明人間」

 「透明人間」が怖いのは、「のっぺらぼう」と異なり、表情が存在しないのではなく、表情が出ているのにそれが見えないこと、あるいは見せられないことだ。「のっぺらぼう」の方には不気味さを感じ、「透明人間」の方には恐怖を感じる。「透明人間」にだけはなりたくないものだ。
 「のっぺらぼう」は、整形手術と化粧でごまかせたり、手をかざしたり隠したりするなど、能面に表情を持たせる技術でごまかせたり、手を顔面に力を加えて変形させて表情をつくってごまかせたりと、いくらか可能性が残されているが、「透明人間」には一つも手段が見つからないのだ。下手をすれば、自動車に轢き逃げされるおそれもある。肉は見えないから、血しぶきだけが飛び散るのだろう。いや、血も透明なのか。誰も助けてはくれない人生を歩むしかないのが「透明人間」なのだろう。もっとも、透明モードを解除できる力を持っていれば別だが。
 そもそも、透明人間とは何だろうか。本当の透明人間なのか、科学技術によって透明になっているのか、透明ではなくても何らかの物理学的な原因や生物学的な原因や心理学的な原因で周囲に認知されないために透明人間並みになっているのか。直ぐ頭に浮かぶのはこの三者だ。
 第一の透明人間は、本当の透明人間だが、疑問続出だ。
 死んだ場合にも透明であり続けるのか、肉体だけが透明なのか、触れたものを透明にできるのか、自由意思で透明になれたり透明でなくなったりできるのか、透明だけど透明人間同士は見えるのか、透明人間同士互いに見えないのならば相手の表情を読みとれなかったり相手のパンチを見切ることができないなどの見えないことによる不都合はどのようにして解消しているのか、透明な自分の肉体は見えるのか、自分の肉体が見えないならば見えないことによる不都合はどのようにして解消しているのか、透明人間となる要素は遺伝するのか、透明人間社会というものはあるのか、血液や内臓も透明なのか、白人黒人という区別に相当する透明さの区別はあるのか、透明人間が見ている世界は色があるのか、透明動物や透明植物もあるのか、透明動物は透明動物ではない動物とどのように進化の仕方が異なるのか、透明動物ではない動物から透明動物が進化して分かれたのか、最初から透明な動物として進化して最終的に透明人間となったのか。太陽光を浴びて受けとめられないからビタミンD不足にならないか、日焼けしても透明度には関係ないのか、入れ墨をしても透明なのでやくざ稼業に支障が生じないか、逆に入れ墨だけが見えてしまうという間抜けなことにならないか。もう挙げだしたら無限に出てきそうだ。
 そもそも身体全体が透明であっても、身体の密度は不均衡だから、均一に光が透過するかどうかという疑問がある。歪んだ透明、つまり身体は透明であるのかもしれないが、透けて見える向こうの景色がめがねのレンズを通したときのように歪むのではないかという疑問だ。
 最も疑問に思うのは、身体が透明であっても、食べた物まで透明にするのかということだ。食べた物がだんだん便に変化していくのを外から観察できるタイプの透明人間と、皮膚の内側のものは全て透けてしまうというタイプの透明人間、この二種類がいるのかもしれない。
 もっとも、後者は背景の光が身体の表面を迂回して反対側に回るという、不自然でややこしい作業が行われているということになる。
 第二の透明人間は、科学技術によって透明になった透明人間だ。技術を開発して自在に駆使するためには莫大な資金が必要だ。それを可能にするのは軍事利用するときの価値の高さだ。諜報活動やゲリラ戦など、敵兵に気づかれないように隠密行動をとる必要があるときには相当に便利だろう。スナイパーに狙われることもない。銃器は透明にはしにくいが、腕の良いスナイパーにはなれそうだ。何しろ至近距離からほぼ気づかれずに発砲できる。
 しかし、軍事目的の場合、人間だけが透明になったのでは不都合が多い。戦闘服、軍靴、通信機器、ヘルメット、防弾チョッキ、武器、食料など、軍事活動に最低限必要なものも透明にするのでなければ、基本的にはほぼ肉体が装具装備で覆われている以上、透明人間であることの優位性を発揮できない。それどころか、透明であるだけに味方の銃弾を浴びるおそれも大きい。また、何らかの信号を発信していないかぎり、怪我で動けなくなっても救出されずに放置されてしまう可能性が極めて高い。
 軍事目的のためには、人間を透明にするよりも、衛星写真でも把握できないように軍事施設や戦車などの大きなものを透明化する技術として開発した方がよいだろう。弾丸まで容易に透明にする技術があるとすれば、敵兵の体内にとどまったものが摘出するのが困難となり死亡率を高めることができるだろうが、あまり意味はなさそうだ。
 第三の透明人間は、正確には透明人間ではない。他者の営みによって透明性がもたらされた人間というだけのことだ。しかし、この手の透明人間の透明性こそが真性の透明性なのかもしれない。受け手の脳の働きによる認知の問題だからだ。
 ところで、透明人間ならぬ透明動物らしきものには、クラゲ、グラスフィッシュなどがいる。透明のカエルも発見されている。どれも内蔵丸見え骨格丸見えだ。それらの動物は透明なのだが、見える部分もあったり完全な透明ではなかったりするから居場所がわかる。しかし、透明人間と言うとき、僕たちは全く姿形が見えない人間を期待している。透明動物にも同様の期待をしている以上、一部分が透明な動物を透明動物とは言わないほうがよいだろう。
 完全な透明植物も光合成が困難ゆえに存在は難しい。動物も植物も透明なものは難しいが、鉱物はどうか。透明鉱物なら存在する。質の高いダイヤモンドはかなり透明だ。それは生きていなくてもよいからだ。物を食べるわけでもなければ骨格も必要としないからだ。そうしたものしか透明にはなり得ない。
 こうなると生き物では、やはり認知されないという意味での透明人間が真性の透明人間ということになろう。意図的に透明になっているか、結果として透明になっているかにかかわらずだ。
 それは自由自在に透明になれるかどうかということがポイントだ。意のままに透明人間になれる人間は、意図的に望んで透明になっているのだ。現れる時は瞬時だが、消える時は記憶というものがある以上、「去る者日々に疎し」とはいうが、存在を消しても通常は長い年月が必要だ。年月をかけられないときは、より強烈な人的存在と入れ替わる必要がある。
 これは忍術で言えば「変わり身の術」の類、その応用だろう。所謂カムフラージュとは反対で、存在を隠すのではなく、入れ替わることによって消えるのだ。入れ替わったものが何の価値もないぼろ切れや人形であれば、より本体に執着して記憶にとどまり、創作されることになる。
 しかし、入れ替わったものが何か特別な価値を持っているものであれば、新しい価値に魅力を感じて気を奪われ、そちらと生活を刻み始めることになる。つまり、記憶の彼方へと消えることで、本体の透明化が完了するのだ。
 透明化が完了すれば、連絡がなくなって自由な存在となる。これより完全な透明化を望むならば、顔面に整形手術を施すという手段もある。また、戸籍をいじるという手段もある。
 やはり見えていた方がよい。透明なのは何か隠密行動を取りたいという前提がある。隠し事は要らぬ詮索を受ける原因となるから、賢いやり方ではない。「見える化」しているからこその信頼であり、協力体制だ。「見える化」していない方がよいのは、自分や他人の心の奥底、人間関係、未来、不都合な記憶等々、結構あるがそのぐらいなものだろうと思う。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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