恐怖シリーズ275「土俵で挨拶したい人」②

 報道では、その挨拶内容の中に「女性だからという理由で土俵の上で挨拶ができないのは悔しい。変えるべきは変える変革の勇気も大事だ。」という内容が含まれていた。この表現自体には問題はないだけに恐ろしい。だが、物事には経緯というものがある。そして、語られる言葉にはそれが正しく成立すべき適切な場がある。
 今回の場合、自分内部の問題を適切に社会問題化し、現実を自分の思うところと一致するように実際に変えて力とすべく、その場に居合わせた人々やテレビ視聴者が適切に事態を把握できるよう、事の経緯を説明していたかどうかという問題がある。また、その説明があったなかったは別として、その訴えの効果を考えたとき、その訴えがこの場の挨拶に含まれていたほうがよかったどうかという問題もある。
 自分の印象としては、そのどちらもアウトだ。もちろん、訴えの内容の是非は別にしてアウトだということだ。本当は、アウトではなく、単に報道する側が編集上センセーショナルにするために、敢えて炎上しやすいようなカットのしかたを上手にしていただけなのかもしれない。
 もちろん、そうした編集によって、市長が配慮して述べたことがカットされたために、このようなアウト感が視聴者側に発生しただけのことなのか、もともと、報道されたままの挨拶に過ぎなかったのかは別だ。現実とは異なり、視聴者にとっては、報道された情報だけが全てだからだ。それは当然のことだが実に恐ろしいことだ。無意識にであれ、意図的にであれ、現実が歪んだり歪められたりするのも恐ろしい。ただ、もともと物事を捉えるということは、そうした歪みがはいるものだ。語弊を恐れずに極論を言えば、歪めることで把握できる、と言えなくもないだろう。
 問題は、そうした免れ得ぬ歪みも、日常生活では、話し合ったり、確認し合ったり、信頼し合ったりすることで、修正されていったり、たとえ歪みが残っても適当に処理されていったりすることがある程度は期待されるのに対し、マスメディアでは、歪みが歪みのまま、視聴者がとある判断をしたり、行動したりするための基本的な資料として、一方的に、しかも大量に流布されてしまうことにある。
 マスメディアの捏造や誤報も、ネットでの捏造や誤報に負けず劣らず、という感じがする昨今、本当に悩ましい限りだが、今回の件は、そうした捏造や誤報ではなく、普通の編集レベルで挨拶内容をカットのしすぎたことによる、市長に対するある種の誤解を視聴者が抱くのではないかという恐れも感じないわけではない。
 その裏には、特に語られた内容に論理的矛盾がなければ、矛盾がないというそれだけの理由で、主張の正当性、つまり主張の内容、主張の対象、主張のタイミング、主張の一般性等々までもが、すべて成立してしまうという、「理想的でわかりやすい論理」の正当性を利用した、「現実的で複雑な論理」がはたらいているものへの理解努力放棄への導きの一種が発動されていなかったかどうか、というおそれはないか。
 また、そうした主張のあり方が、繰り返し放映されるということによって、いつの間にか一般的なものだという受け取り方をされてしまうというのも恐ろしい感じがする。
 いろいろな批判の仕方や主張の仕方が市民権を得るのは悪くはない。しかし、それは確実に面倒なことにはなるだろうと思うのだ。もちろん、社会をより複雑化させたり、活性化させたりするためには、面倒なことが起きた方がよいのだが、それを避けたい人々の法が圧倒的に多いことを心配するのだ。しかも、思いもよらない風潮が助長されかねない予感がする。これも誠に恐ろしい。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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