変な疑問209「五輪の塔の不思議」⑧

 またさらに想像力をたくましくしてみるとどうなるか。
 供養塔であれ、墓であれ、「五輪の塔」は、死んだ人のことに思いをはせ、冥福を祈るためのものだ。供養塔であれば、それは亡くなった場所に建てられたものかもしれない。あるいは、お墓のあるお寺から非常に遠く離れた土地に居つかざるを得ない人が身近に建てたものかもしれない。
 少なくとも、その人が亡くなった場所に、敢えてお墓を建てることは難しいだろう。第一、亡くなった場所によっては、そんなお墓は邪魔なものでしかない。お墓とはいっても、いや、お墓だからこそはた迷惑なのだ。
 遺体の数が多ければ、まとめて一つの供養塔を建てることもあるかもしれない。慰霊碑のような形となるかもしれない。それが塔なら慰霊塔だ。
 身体が悪くて墓参りに外出できなかったり、政治的に問題があって行けなくなってしまった場所にたまたまお墓があったりすれば、それはどうしても供養塔が必要となるだろう。「わざわざそんなことしないよ。」というのは、単なる現代人の感覚か、個人的な感想に過ぎないと思う。まあ、どれもこれも、全ては個人的な感想なのだけれど。
 ただ、冥福を祈るといっても、生まれ変わるまでのことだと僕は思う。なぜなら、転生してしまった冥土にはいなくなるはずだからだ。いつ転生したか印があるのだろうか。そうしたものも示さないで、ただご先祖様のご冥福を祈るというのは、非常におかしな話だ。
 もちろん、いつまでも転生することができないご先祖様もいるかもしれない。転生して人間に生まれ変わったとしても、その何年か後に結局は死ねのだ。だから、また冥土にたどり着くという理屈。したがって、多数いるご先祖様の誰かが、結局は冥土にいるだろうという、まあ丼勘定なのだが、だから転生した印など必要ないということなのかもしれない。
 しかし、誰がどういう理由で人に転生できたか、逆に、どういう理由で永遠に転生できないでいるのか、そして、人以外に転生したのはどういうわけか、というような具体的な報告があれば、冥福の祈り方も違ってこようものだ。ご先祖様という括りでは、あまりに大雑把で困る。念じようにも念じる力が半減してしまうような気がするのは、僕だけだろうか。
 そうした具体性がないから、表面的な、形式的な、対象が曖昧であるがゆえの、冥福の祈り方になってしまう。実に不合理だ。科学的な合理性を問題にしているわけではない。宗教的合理性というものも、それなりの筋を通さないと、現代人に普及させていく力など微力でしかなくなると知るべきだろう。
 他にも様々な宗教的不合理があるが、そうしたものを積極的に世に示し、明解な説明を加えないという姿勢であることがほとんどだ。そうしたものにしか、まだお目にかかったことがない僕は、相当に運が悪いのだとも思う。
 そうした消極的な姿勢しか持てない宗教団体は、ニセモノか、かつては本物だったが今は堕落してニセモノまがいのものと言われても仕方ないだろう。ただの集金システムに近い存在となる転落が、そこには見えてくる。ゆえに何も救ってはいないのではないか、と仮に批判されるようなことがあったとしたら、一体全体、どのような反論をするのだろう。
 お寺に命を救われたという人がどれだけいるか、そしてお寺に心を救われたという人がどれだけいるかの統計はあるのだろうか。あるのかもしれないが、示されない。示されているのかもしれないが、少なくとも探している僕の目には触れていない。
 それは餓死しないように救ったというレベルのものでもよい。いじめで自殺するのを思いとどまらせて救ったというレベルのものでもよい。その原因のいじめ自体を解決して救ったというのならなおのことよい。虐待で殺されそうになっている子供を救ったというのなら表彰ものかもしれない。対象が多すぎるが、過労死しそうな人を救ったというのでもよい。
 何でもよいから、命を救った実績を示してほしいのだが。命を失ってから弔ってもらっても、本当のことを言うと、そう有り難くはないのだ。
 それでは愚の骨頂名ならぬ、後手の最骨頂だ。それが仕事ですと言われればそうなのだが、それだけが仕事ではないはずだ。それは、もっと重要な仕事を果たしてから言うセリフではなかろうか。どこでどう開き直ったものだろう。亡くなった後の法要、供養ならば、極端な話だが、やろうと思えば誰でもできる。
 命を救うなどという大それたことは勘弁してほしいということなら、亡くなる前の心の救いでもよい。何か実績を示してほしいものだ。宗教法人とはいえ、社会の一員なのだから、実績が無いわけがなかろう。
 だから、年間ベストスリーでもよいから、そのお寺の実績をホームページか、檀家への通信文かで「救い」の実績を明示すればよい。通信費を節約したいのなら、お盆のときに、紙にでも書いて大きく掲示すればよいことだ。
 さらに言えば、解決しなくてもよい。どのような悩み事の相談があったかとか、何に関わって救おうとしているかとかを、支障ない表現で明示すればよい。そうすれば、僕たち一般人が、どのような救いを求めてお寺に駆け込んでいるのか、共通理解が得られる。たとえ解決していなくても、話を聞いてくれるかどうかの情報が共有化される。これは世の中を救う第一歩となるはずだ。
 自殺者をどれだけ救ったか、どれだけ心を救ったかという統計を作成するのは、費用と時間さえあれば、決して難しいものではない。それをも現代なら、それほど費用をかけなくても可能だ。それをやろうとしないのは、お寺にとって不都合な統計結果が見えているとでもいうのだろうか。
 こうしたことは昔ではできない。ネットもなく、ハンドルネームもなく、未発達なカウンセリング技術しかなく、解決事例も乏しく、他のお寺との連携する方途もなく、他の専門機関と連携することもできなかったのだから。今、やっとできる環境が整っていきたというところだ。
 だから、その気になれば、どれだけ成果を上げられるかは別として、打つ手として簡単に打てる手となっているはずだ。それを敢えてしない内輪の事情もいろいろとあるのだろうけれど、お寺に何が期待されているかを知らなければ、さっさと斬り捨てられる存在になりつつあることを厳に知らねばならない。それはお寺にとっても一般人にとっても不幸なことだ。そして、その鍵はお寺の側に握られているのだ。
 もし、社会的に認められる実績があるのならば、今のお寺の現状を考えてみるに、自ら行動を起こし、世間にアピールするための資料とするのが良策のはずだ。そうしたことは、暗黙の了解、あるいは共通理解のもとに禁じられている行為なのだろうか。一部のお寺がそのような行動を起こすことにブレーキがかけられているような状況にあるのだろうか。だが、最初は一部の動きから始まるものだ。それを潰して何になるというのだろう。
 出る杭は打たれるという、面白い構造が宗教界にもあるのだろうか。宗教とはいっても、所詮は人間の所行に過ぎないのだから、そうしたものから脱却できないでいる可能性も大いにあるかもしれない。
 しかし、神仏に仕える人々なのだから、少なくともそうした馬鹿らしいものからは、最低限解脱しているか、そうしようと努めているはずだと思いたい。
 したがって、実績を公表しない理由は別にあると考えたほうが、より現実的だとは思う。しかし、その理由が全く思いつかない。それは僕たち凡人の悲しさなのだろう。
 自分の知る限りでは、仏教、イスラム教、キリスト教をはじめ、その統計を、宗教活動の実績の実績を示す証拠の一つとして示していることはない。まさか宗教間での申し合わせがあるとも思われない。それぞれ立派な伝統ある宗教なのだから、たとえ一部に堕落した指導者がいたとしても、全体としては職務怠慢ということもないはずだ。
 おそらく、そのアイデアがないのだ。そう思いたい。しかし、アイデアが無いのではなく、最初からそのようなことは職務の中にはないと主張する人たちもいるような気もする。いや、いて当たり前のような気もする。
 だが、開祖様がそれを聞いたら、さぞかし悲しむだろうなと思うのは、僕だけだろうか。実績を示すのが駄目なら、論文なり、著作なり、法話のCDなりDVDの中の語りの中でなり、無料とは言わない、販売して世に示してみてはどうだろう。少なくとも檀家に販売しても問題ないと思うのだが。
 そうした手間と費用が負担だというのならば、ブログでどうだろう。ほぼ無料、格安、短時間で即時的に配信できるはずだ。パソコンがなくても、ご老人でさえも、多くの人々がスマホをもっている時代だ。ガラケーでも構わない。
 どちらかといえば、ご老人はそうした配信を待っている口だ。お寺たるもの、そうした声なき声に気づかないようではいけない。そんな神通力は無いというのなら、さらに修行するか、集会や役員会等で、聞く耳持つ時間を僅かに設けるだけのことだ。そこに何の労苦があろうか。世間話の中からでも十分に伝わってくるものがあるはずだ。
 さて、あくまでも想像だが、同じ宗教の他の宗派からの批判以外は、何も追及されるおそれがないという、ある意味で社会的に異常に特別な大宗教の立場は、「神仏を信じる者に、救った者の数の調査などをわざわざ示す必要などあるでしょうか。ひたすらに信じることが大切なのです。」と問題を回避する態度に出る可能性がある。
 それは宗教的権威を笠に着た、強制的な思考停止に他ならない。今の世の中、そのような発言は、お寺の命取りになろう。即死ではなく、じわじわと檀家の世代の変わり目を迎えるごとに傷口が深くなる、緩慢な死の到来を招くことになるだろう。
 そして、そう諭した後、なお平気な顔、恐らくは遠くを見つめるような表情をして見せ、意味ありげな沈黙を決め込むという手に打って出るか、聖なる書物からの引用を駆使することもなく、聞いた風な有り難い文句を一つ二つ紹介することで、己の土俵に引き込もうという手に打って出るか。
 大宗教であればあるほどに、そうした態度を指導者にとらせることになるだろうと思うのは、想像のしすぎだろうか。
 もう少し想像してみよう。こうなると妄想に近いかもしれないが、「皆さん救われているからこそ、ここに来ているのですよ。」というような常識外れの対応、頓知で切り抜けるようなやり口を、さも腕の良い指導者であるかのような自画自賛の表情を押し包みつつ微笑みに変え、優しい雰囲気を醸し出しながら、何事もなかったかのように敢えてゆっくり立ち去ったり、合掌したりして終止符を打とうという態勢に入る。
 まあ、想像もここまで来ると、そのうち次第に迫真に迫ってきて、現実と混同しそうになるおそれがあるから、このあたりで終了しよう。
 それにしても、彼らの実績とは一体全体どういうものなのだろうか。これは世に知らせるべきであろうことは確かだ。そうすれば、自然と人も集まってくるに違いないと思うのだが。
 さて、変な疑問だが、魂が冥土にいる間の肉体を、昔の人はどう考えてきたのだろう。肉体は肉体ならぬものとなり、たとえば灰や煙となって、この世界に散っていき、最後には見えなくなるものだと考えたのではないかと想像する。
 肉体は焼けば、骨や灰は残っても、肉は消えてなくなる。土葬にするのは、それが獣や虫に食われないようにするためだろうが、やはり骨は残っても肉は消えてなくなる。何処へ消えたと考えたのだろうか。そうした白骨の遺体と木乃伊化した遺体との違いをどのような宗教的納得で了解したのだろうか。
 火葬でも土葬でも結局は土に還ったという、大雑把な納得の仕方をしているという理解をしてよいものだろうか。当然、そのような素朴な納得の仕方もあるとは思うけれど、果たして正式な宗教的見解とはどのようなものなのだろうか。
 かつて昔の一般人はお寺のお坊さんに「どうして土に還るんだ?」とか「土に埋めたらどうして骨になるんだ?」とか質問したとき、どのような返答をもらったのだろう。
 そこがお寺の分岐点だと思う。
 「そのようなことを考える暇があったら、ご先祖様のご冥福をお祈りいたしましょう。それが何よりも大事なことなのです。」という逃避タイプの返答か。
 それとも、「それが人の運命というものです。生きとし生けるものの逆らうことのできない運命なのです。人はその運命にしたがい、しかも間違いなく精一杯生きよという教えを、神仏はお示しくださっているのですよ。」という、すり替えタイプの返答か。
 あるいは、「魂が昇天したからですよ。お骨は生きていた頃の名残としてあなた方に遺してくだったものです。だから、遺骨を安置し、あの世に行かれた魂の安らかならんことをお祈りいたしましょう。」という、なんとなく理屈のようなタイプの返答か。
 あるいは、「昇天した魂はこの世にはなく、したがって目には見えません。肉体も朽ちて土に還り、やはり目には見えないものとなりました。去る者日々に疎しと申します。いつまでも心の中にいていただくことが大事です。そのためには、亡き人の像を造り、ご冥福をお祈りするとともに、私たちを見守ってくださいますようお祈りするのがよいでしょう。でも、像を造ると、そこに霊が宿ってしまい、成仏を妨げないとも限りません。その代わり一人一人の姿形を象ったものではなく、どなたにも共通するような供養塔を建てましょう。さて、どのような塔がよろしいでしょうね。」というような、行動に導くタイプの返答か。
 「五輪の塔」が製造されはじめる直前には、そのようなやり取りや背景があったとは想像できないか。今はただ、最後のタイプ以外のタイプの返答を、平気でするようなお寺の先行きなど、どこにもなかったのではないだろうかと想像するばかりだが。
 しかし、そうしたタイプの返答しかできないレベルのお寺も、右にならえで、少なくとも表面的には親身になって一緒に考えてくれるような最後のタイプのお寺と、その風景を同化させるべく変貌していったものだろうと想像する。
 それは流行とその心の関係だ。発信地の心だけがあって流行するものではない。流し手と受け手との心が一致しての流行だ。しかし、心が一致しない、意に反しての流行もある。そうした一致なしの流行、つまり心知らずの形だけの流行も案外と多くあるように思う。ただし、そうした流行は、流行だけに一時期だけに浅ましく広がるものだと思う。
 ところが、「五輪の塔」のようなものは、仮にそれが単なる心知らずの流行で広がったものだとしても、まずは製作者という第三者の介在があるから、一時的な流行ではなくなっていったのではないかと想像する。
 それは、加工技術の伝達による継続力、そしてデザインの競争による継続力が加わることによって実現されていく。石工集団の維持発展という問題に組み込まれていくからだ。
 さらに、塔であることによる存在感と材質の耐久性の高さによる継続力も加わる。そして、供養塔であるため世代をつないでいく超時代的なスケールを本質的にもっていることによる継続力が加わることになる。
 もちろん、宗教の信じる力が根底にあって、それが親から子、子から孫へと継続されていく継続力が基本となっているのは、当然のことだ。ただし、それは具体的なものではなく、大雑把に「神仏を信じる」という単純なものでなければ継続されにくいはずだ。
 ともかく、どの「五輪の塔」がどういう来歴を持ったものか。その生まれた時代背景や、建てた人の思い、「五輪の塔」のスタイルを考案した人の思い、実際に作製した人の思い、「五輪の塔」が建ち並ぶ経大を眺めた人の思いなども含めて、想像しながら眺めざるを得ない。そして見れば見るほどに、歴史が重ねられていればいるほどに、その来歴の不思議が感じられてならない。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
カテゴリー: 変な疑問 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中