変な疑問210「五輪の塔の不思議」⑨

 さて、「五輪の塔」で供養するにしても、遺体をどうするかという大きな問題からは逃れられない。貝塚のように一箇所へまとめて始末してしまっては、ごみ扱いとなるから心理的に大きな抵抗感があっただろう。
 もっとも、それは現代の日本人の感じ方だ。所変われば品変わる。品ではないが、時代や土地によって生死観が異なる場合もあり、現代人にとってはごみ扱いでも実は何のことはないとことなのかもしれない。
 それどころか、ごみ扱いのように見えても、実は丁重な扱いのつもりなのかもしれないのだ。一見してぞんざいな扱いに見えた場合でも、本当にぞんざいなのか丁重なのかは区別はつかないように思う。
 ごみも元はごみではなく、大切な食料や品物だったはずだ。人も同じ、生きている間は大切な人であったはずだ。その大切だった人の周囲には、やはり大切だった食料や品物で埋め尽くされているのがよりよいだろう。このように考える人たちだっていたのではないだろうか。
 そうなると、ごみだめは現代人の考えるごみだめではなく、行きつく果て、永遠に安定する聖なる場所であったかもしれないではないか。
 それがいつの間にか汚いものや邪魔な物の集積地として変化していくのは、より文化的な生活を知恵や道具によって実現しはじめ、身の周りの品物が次第に豊富となり、やや物あまりになってきたころからだろうか。豊富な食料ゆえの調理の残骸などが、有り難い再利用可能な資源ではなく、ありふれた、いや溢れ出して、日常生活にも悪影響を及ぼす規模の厄介なものになってきた頃からだろうか。
 勿論、これも想像なので、実際にはどうだったかは分からない。でも、こうした当時は当たり前のことであっても、今となっては当たり前ではないことはたくさんあるのではないだろうか。そうしたものの元になっている自然環境や生活環境の違い、技術の違いや人口の違い、それらの異なりから導き出される、ものの見方や感じ方の違いが、昔の人々と現代人との間にある、感じ方や考え方の異なりを形作っている可能性は十分にあると思うのだ。
 現代人ならば、同一平面上に多く埋葬した場合に、ありがたみを感じるのは、家族単位で亡くなったときぐらいだろうか。生前と同じように、家族を一緒に埋葬しても不自然さはないように思う。特に、幼子などが一緒に亡くなったような場合には、その子を中心にして両脇に両親を埋めあげようという気持ちになる。川の字で埋葬するのが最良の埋葬の仕方だと思うのが現代人だろう。
 しかし、これを平面ではなく、上下に展開されるとどうだろう。現代人はこの埋葬の仕方に嫌悪感を感じるに違いない。上下に積み上げるというのは、たとえ間にある程度の土の層が設けられていたとしても、やはり抵抗感があるのではないだろうか。
 間に土の層もなく、直接積み上げられるような埋葬の仕方であれば、絶対に抵抗感があるはずだ。ごみ箱にごみを突っ込んでいくというイメージだ。個人として扱われたのではなく、十把一絡げにされたというイメージだ。そこに現代人は粗雑さを感じるのだ。亡くなってからも一個人として丁重に扱ってほしいという欲求があるのだ。
 上の遺体と下の遺体の間に土の層があって隔てられていたとしても、既に亡くなっているから圧迫感など関係ないのだが、どのみち埋められるのだから圧迫感を問題にするほうがおかしいのだが、人情として上に人が埋葬されるのは直接上に乗せられるわけではないのだけれども、嫌なのだ。
 生きているうちは、巨大高層ビルの一角にある会社で働いていることに何の抵抗感もなく、どちらかと言えば誇らしげであっただろう。それが、亡くなってからの高層化、いや地下だから何といえばよいか分からないが、とにかく上下に層をなして積み重ねていかれるのは、甚だ好ましくないらしい。
 現代人の場合、平面的に埋めるのなら、心理的な抵抗もなく、埋める位置に意味を持たせるなどして却ってよいのではないかと思う。しかし、平面的に埋めるのは面積の関係で直ぐに不都合が生じる。人口が集中するような都市が形成されてくるような時代では特にそうだろう。
 最初は一人一人の墓を作っていたのだろうが、それでは面積に限りのある都市では、やがて限界が来る。
 そうなると、火葬にしてミニサイズにするという知恵をはたらかせるしかなくなる。勿論、それ以外にも理由はあったのだろうが、それまでの道理が変わるのだ。
 もしかすると、昔の人の意識の中では「無理が通れば道理が引っ込む」式に火葬が流行りはじめたかもしれない。
 土葬のように現物サイズではなく、ミニサイズとなったら便利なことが幾つも出てくる。まず、墓の中に心置きなく平面に並べられるから、死後の妙な圧迫感を予想しなくてよくなる。次に、並べる位置すら変更できる。誰の横に骨壺を置こうか生きている者の自由自在だ。何なら少し離して置きたいという人もいるかもしれない。土葬と違ってご先祖様を掘り当て、ご先祖様を鍬で傷つけるという不始末を犯さなくて済む。
 今は土葬が禁止されているけれど、土葬にしろ、火葬にしろ、供養ということを考えたら、遺体自体に直接向き合って行うのが本来の供養のあり方だろうだろう。たとえ地中であろうと墓石の中であろうと。
 土葬は土の中で遺体が朽ちていく。朽ちていく遺体を見詰め続けるという僧の修行があったそうだが、遺族には見るに堪えないはずの状況が展開する。誰の遺体を修行の材料とするのかは知らないけれど、何か基準があって選ばれるに違いない。もしかすると、僧の身内か関係の深い人の遺体が選ばれるのかもしれない。
 これは残酷なことでも何でもない。肉体の真実を見極め、幻想を幻想として捉え、現実を現実として捉えるトレーニングに他ならない。実に科学的な行為だとも言える。代替物でも可能なトレーニングのようにも思われるが、それでは未練があることになる。究極の選択をして挑む僧の心意気に経緯を服したい。いつ頃までどの宗派が行っていたものか知りたいものだ。
 さて、遺族としては、遺体の代わりに「五輪の塔」に向き合って供養するのが穏当だろう。動物の対極にある鉱物で構築された「五輪の塔」だ。動物のイメージを軽減する効果があるかもしれない。加えて動物の対極にある植物である花を供え、今度は鉱物のイメージを軽減する。さらに人工物である蝋燭と線香を供え、人という動物、この世の五大要素の象徴である石塔の鉱物、供えられた植物、蝋燭と線香という人工物、その光と香りの要素が加えられる。そして、読経の音声という音、その音で構成されたことばによって表現された意味が加わえられ、一つの世界が構成される。この小宇宙を故人のために再構成することが、せめてもの供養、供養の始まりなのだろうと思う。
 つまり、「五輪の塔」は供養塔だから、供養の中心となるものだが、その塔自体が供養のもとになるわけではないとは直ぐに思いつくことだが、だからといって「五輪の塔」を建てる行為自体が供養となるわけでもないだろう。それは、供養の準備ができたというだけだろう。
 では、本当の供養とはどうすることなのだろうか。それも素朴な疑問として湧いてくる。お経を読めば供養となるのか、故人を思い出せば供養となるのか。そもそも、なぜ供養する必要があるのかということから考え直したほうが、形式に流されずにすみそうだ。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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